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それでも忘れられない君へ。④

 綾は自分の席につき、スマートフォンのタイマーを10分にセットする。スケッチブックと鉛筆を握り、足を組みながら鉛筆でアタリを取りはじめる。
 加奈子は「何をしてても良い」と言われたとて、何をすれば良いのかがわからない。とりあえず、綾が何を描いているのかを後ろから覗き込んでみることにした。

「石川さん、興味あるの?」
 気配を後ろに感じた綾は視線を石膏像に向けたまま、加奈子に話しかけた。
「いえ、なんとなく……」
 加奈子はおそるおそる綾の質問に答える。
「描きたくなったら教えて。道具を貸したり、簡単なレクチャーをするぐらいのことはできるから…」
 と綾は背を向けたまま言い、石膏像に向けて立てていた鉛筆を握り直し、スケッチブックに描き込みをはじめた。綾の言葉はコンパクトで、どこか会話から逃げているようにも感じた。下級生の手前、先輩風を吹かしてはいるが、実は会話が苦手だったり、恥ずかしがり屋なのかもしれないと、加奈子は感じた。
 さっきまで真っ白な画面だったのに、そこに一つの像の輪郭、そして大まかな陰影が描きこまれていく。だいぶ慣れているらしく、描くスピードは相当早い。3分もしないうちにある程度それらしい形が描けてしまっている。

(すごい…)
 絵なんて描いたことはもちろん、美術館にも行ったことのない加奈子だが、そんな加奈子だからこそ、綾の手つきが素晴らしく感じられた。集中した綾はそんな加奈子の様子には全く気にも留めず、スケッチブックに描かれた線と面の集合体に、より細かなディティールを描き加えていく。
 10分終了のタイマーが鳴る頃には、そこそこ見ることのできる「作品」が早くも完成しつつあった。もちろん数時間をかけたデッサンに比べれば簡素なものではあるが、素人の加奈子を嘆息させるのには十分な出来だった。

「上手なんですね、先輩…」
 加奈子は拍手のように手を叩き、綾は久しぶりの褒め言葉に思わず笑みを浮かべた。最近は美術予備校の大学生講師に、揚げ足取りのような細々とした指導を受けるばかりで、今の加奈子のような、まっすぐな称賛を聞いたのは実は久しぶりだったのである。
「まあね。だけど、もうちょっと頑張らないと…」
 と言いつつ、立ち上がって石膏像をグググと回転させていく。どうやら違う角度からもう一本クロッキーに挑戦するらしい。それを見て加奈子も立ち上がり、石膏像を回転させるのを手伝う。
「先輩、これぐらいでよろしいですか?」
「うん、ありがと… あとさ……」
 綾は口に手を当て、軽く考えてから再び口を開いた。

「『先輩』ってちょっと恥ずかしいな…敬語も…」

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