マーロン(森雅浩さん)が語る(1)〜Be-Nature Schoolの始まり

いよいよ、20周年記念スペシャル「聞き書きインタビュー」シリーズの始まりです!Be-Nature Schoolに深〜いかかわりを持つ講師陣や運営メンバーを直撃。いまだから語れる、あんな話やこんな話を根掘り葉掘り聞いちゃいます。

トップバッターはやっぱりこの人。Be-Nature Schoolの生みの親?育ての親?そう、Be-Nature School代表のマーロンこと森雅浩さんの登場です。Be-Nature Schoolの誕生のきっかけから、20年間うちに秘めてきた熱い思いまで、全4回にわたってお届けします!

すべてはイルカ・クジラ会議から始まった!

Be-Nature Schoolの成り立ちをふり返るとき、忘れちゃいけないのが「アイサーチ・ジャパン(国際イルカ・クジラ教育リサーチセンター)」という団体。当時、「イルカやクジラに人間も学ぶべきだ」という盛り上がりがあって、1990年の第2回国際イルカ・クジラ会議に、日本人で初めて出席した岩谷孝子という人が92年に立ち上げたの。今は長野でフリースクールをやってるんだけどね。

オレが岩谷孝子に出会ったのはアイサーチ誕生よりも前、実は仕事を通してなんだよね。当時オレは洋服の販売会社で企画やってて、彼女はクリスタルなんかの雑貨輸入の仕事をしてたんだけど。第一印象からすごい魅力的で、いろいろ話してるうちに、92年にハワイであった第3回のイルカ・クジラ会議にオレも一緒に行くことになったわけ。

で、ハワイに行ったら「2年後には日本でやりましょう」ってことになっちゃった。「これは大変なことになったなぁ…。でも、ちょっと積極的にかかわりたい」って思って会社辞めちゃったわけよ。「イルカ・クジラ会議が終わったら、ネイチャー系のイベント屋でもやりゃあいいや」なんて軽くね。

実際、アイサーチ・ジャパンが中心になって、94年の4月に日本で第4回の国際会議をやったの。そこにダイビング業界や海がらみのインストラクター、環境教育やってる人たちが集まってきてて、Be-Nature Schoolの立ち上げにかかわる面々が出会うきっかけになった。

開講に向けて奔走した1年半

1994年の確か11月くらいだったと思うけど、代々木上原にあったアイサーチの事務所に、ヒゲさん(長谷川孝一さん)とメグ(松元恵さん)が来て、「イルカとかクジラとかばっかり言ってないで、もっと自然の全体的なつながりを意識した方がいいよね」「じゃあ、年間通じてそういうスクールやる?」って話が持ち上がったんだ。

隣の部屋にいたオレやどんぐりさん(長野修平さん)もその日の内にジョインして、それから民ちゃん(中野民夫さん)や小出仁志さん、いまは亡きインタープリターの先駆者・小林毅さんなんかも徐々に加わって。岩谷孝子と長野修平とオレの3人が事務局みたいな感じで、1年以上の準備期間を経て、Be-Nature Schoolが立ち上がったわけです。

8人くらいのコアメンバーで合宿とかワークショップを散々重ねて、あーでもない、こーでもないって。「海があるなら山もだよね」とか「動物も欲しいよね」っていうふうに、1年半かけてプログラムをつくっていった感じ。

誰かが「ボディワークは中野さんがイイらしいよ」って言うから、試しにやってもらって。そしたらオレもどんぐりさんも「これはいい!」ってなっちゃってさ。元々は二人とも、ワークショップはあまり好きじゃなかったはずなんだけどね。

岩谷孝子はリーダーシップはあったけど、彼女がすべてを決めてたわけじゃない。環境教育的な部分ではヒゲさんがとっても強かったから、いろいろ教えてもらいつつね。

プログラムがだいぶ固まったころ、三宅島と御蔵島にモニターツアーに行ったの。みんな自腹でね。でもオレは金がないから行けなかった。一番食えない時代だったね。それが1995年の夏。それでオレは、せっせと企画書つくってはメディアに送るという広報活動をしてた。そしたらイルカ・クジラ会議で知り合った読売新聞の記者が、Be-Nature Schoolのことを日曜版ですっごく大きく取り上げてくれたんだよね。ふつうに広告で買ったら8,000万円くらいするようなサイズ。

おかげで、けっこうたくさんの人が12月に実施した説明会に来てくれた。で、満を持して1996年の4月から「自然の心にふれて自然な自分に出会う年間プログラム・BASICコース」が始まったわけ。

自然学校で「食っていく」こと

このBASICコースを1年終えたところで、岩谷孝子はもう一回アイサーチ・ジャパンに戻り、どんぐりさんは「ネイチャークラフトを追求したい」ってことで講師の道を歩みはじめ、事務局としてはオレが残ることになった。なんかオレにとっては、イルカ・クジラ会議もBe-Nature Schoolも、のめり込んだというよりは、まったく自然な流れだったんだよね。

最初のころはホント食えてなかったんで、岩谷孝子の会社・ピースフルファミリーが抱えてる輸入雑貨の不良在庫をどうにかするとか、サラリーマン時代のノウハウも総動員して、販促系の仕事とかパンフレットのアートディレクターとか、なんでもやったよね。そういう金を稼ぐ仕事もやりながら、二足のわらじでBe-Nature Schoolをやってた。10年間サラリーマンやって給料もらってたから、本当の意味で「自分で仕事をつくる」ってことがまったく分かってなかったって、そのとき実感したよね。

当時は、まぁ、ほとんどヒモみたいな感じ。だから奥さんには感謝してます。信じてくれないかもしれないけど、本当に。

そういった意味でありがたかったのは、1999年ごろに民ちゃんが「トヨタエコファミリースクール」の仕事を持ってきてくれたこと。Be-Nature Schoolは大人対象だったんだけど、こっちは親子向けの自然学校で、三宅島と奥多摩でプログラムを組んだんです。主催事業以外では初めてのまとまった仕事で、そこそこの金額になったから、ホントに助かった。

そんなこんなで、Be-Nature Schoolを始めて5~6年くらい経ってから、ようやく副業なしで食べられるようになったんだよね。ちゃんと「仕事」として専念できるようになったのは、ホント大きかったなぁと思うよ。

(つづく)

*第2回は、Be-Nature Schoolがどんなふうに成長、そして変化してきたのかを語ってもらいます。お楽しみに!

(聞き書き・鈴木慈子、構成/編集・小島和子)