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荒野に咲く花々2-マグダレナ

これが私の本来の姿
   

             マグダレナ・ガルシア・ドゥラン
         メキシコ市在住先住民代議員、先住民マサワ


 マグダレナが再び母語で話し、民族衣装を着はじめるには、チアパスで反乱が起きることが不可欠だった。彼女の説明によると、以前はインディア・マリア【マサワ先住民の女性マリアが主人公の映画・テレビドラマ、1972∼ 2014年制作】が描き出した人物像によって助長された差別のため、彼女たちはスペイン語で話し、髪にカールをかけ、ヒールの靴を履かざるをえなかった。しかし、「私のなかに持ち続けてきたものは誰も引きはがせない」と、彼女は言う。

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集会で演説するマグダレナ

 今では、マサワ代議員マグダレナは、色鮮やかなプリーツ・スカートとブラウス、大きなリボンを巻き込んだ長い三つ編みの髪で、メキシコ市の街路を闊歩する。「サパティスタの戦いのおかげでこの姿を取り戻せた。これが私の本来の姿よ」と言いながら、彼女は最高裁判所の向かいにの大テノチティトラン創設記念碑の元に座り、クロスステッチの刺繍製品を売っている。最高裁判所は、彼女の起訴内容に関して全面無罪、釈放という保護請求を認めたことがある。18カ月に及ぶ不当拘束の後だった。

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マリチュイの活動に同伴するマグダレナ

 刑務所の門が開かれ釈放された時、「あなたに御迷惑をかけました」というお決まりのお詫びの言葉は彼女に向けられなかった。「私は身をもって弾圧を体験した。家族と離れるのはとても苦しい時だった。収監された時に病気だった人とは、生きて再会できなかった。孫たちの誕生にも立ち会えなかった。だけど、何もかも悪かったとは言えない。考えようによっては、素晴らしい体験をしたとも言える。沈黙を強いられたが、種子をいろんな所に播けた。数多くの種を播けた。人々の意識を覚醒できた」。首都ソカロ広場と生まれ故郷メキシコ州サンホセ・デル・リンコン行政区サンアントニオ・プエブロ・ヌエボで行ったインタビューで、彼女はこのように語ってくれた。

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ソカロの国立宮殿前に立つマグダレナ

 彼女はメキシコ市に居住している先住民の諸権利の防衛に携わり、サパティスタの呼び掛けでメキシコの下の世界を巡回した2006年の「別のキャンペーン」の活動家でもある。2006年5月、サンサルバドル・アテンコとテスココで弾圧された花卉販売者に対する連帯行動にマグダレナは馳せ参じた。国際アムネスティの認定では、多くの活動家やアテンコのエヒード農民を拘束する際、連邦警察はひどい人権侵害を犯した。報告書には、少なくとも26名の女性への性的暴行の証拠が含まれていた。 
 2005年にEZLNが発表した第6ラカンドン密林宣言の呼び掛けに応じ、マグダレナは数人のマサワの仲間とチアパスに向かった。「それ以降、別のキャンペーンとともに歩んできた。メーデーではソカロ広場で副司令官マルコスとともに発言した。その演説で、街頭は私たちより空腹を抱えている者のものと発言した。2006年5月1日のことだった。4日は公道でデモ行進をする予定だった。しかし、3日にテスココ市の市場で、花卉類を販売できないという問題が発生した。サンサルバドル・アテンコの住民は花卉販売者の支援に向かった。トラテロルコの集会で、アメリカ・デル・バジェ【アテンコの土地防衛人民戦線の代表イグナシオ・デル・バジェの娘、2006∼10年に米国に政治亡命】の発言を聴いた。彼女によると、女性の花卉販売者が逮捕、殴打され、家から拉致されたという。子どもが一人殺され、アテンコに来るかもしれないと言っていた」。

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2006年メーデー、ソカロ広場でのマグダレナ

 マグダレナの回想によると、夜に、「アテンコまで行き、子どもの通夜に出席し、連帯の意思を表明できるかどうか、ほかの少人数のグループと議論した。私はアテンコに行きたかったので3人で出かけた。また、デモ行進の予定もあった。私たちは、自分たちが作った販売用の刻んだフルーツの盛り合わせ、チチャロン、フライド・ポテトなどを持参することにした。
 4日早朝6時頃、警察や機動隊の部隊が到着した。私はバスの中にいた。爆弾が投下された。上空のヘリコプタはスズメバチのようにブンブンと唸っていた。自分たちの姿が見えないように、私たちはバスの扉を閉めた。同志1名を下ろそうにも、どうすれば後ろの扉が開くのか、わからなかった。私は一番先頭にいたので、一人の機動隊が私のネックレスをつかんで引きずり出し、もう一人の仲間は別の機動隊員に引きずり出された。機動隊員は同志を殴りだし、私はバスから降ろされ、機動隊員は私の袋の中のものを盗もうとした。その後、私は殴打され、脅迫され、投獄された。私は極悪犯罪者としてアルモロヤのサンティアギート刑務所【主に政治犯、社会活動家、ナルコ関係者などが収監】に1年も収監された。

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マグダレナ釈放要求ポスター

 多くの血が流されたその日、マグダレナは腹ばいの状態で護送車に載せられ、多くの警官が彼女を足で蹴りだした。「スパイク付のブーツで私を踏みつけた。別の人のところにも向かい、熱い灰のようなものを撒き散らし、腹部を火傷した人もいた。これで死ぬのかと、私は思った。その時、ポンチョを着ていたので、首を絞められていると思った」。載せられた護送車で目撃したのは、「たくさんの人が積み重ねられた様子だった」。一人の体の上に別の人が重ねられ、人々のうめき声を耳にした。「私は他人を踏みつけたくなかったが、警官たちは私の髪の毛を引っ張り、皆を踏みつける形で、護送車後方に押し込んだ。上に積み重ねられた二人が私を足蹴にすることになった。私は警棒で殴打され、血まみれになった。誰か一人でも動くと、殺すぞと脅された。私はとてつもない恐怖に慄いた」。
 マグダレナをはじめ100人以上がサンティアギート刑務所に送致された。「私たちはごく少人数だと思っていた。しかし、刑務所には、殴打され、傷ついた人が多くいた。私は意気消沈し、生きる気持ちが萎えた。しかし、私はどんな所でも仕事ができると考え、私は刺繍をすることにした」。組織的犯罪、計画的誘拐、公共交通機関に対する攻撃という罪状で、彼女は告発された。国際アムネスティは彼女の事例を取り上げ、「良心の囚人」に認定した。80カ国以上で彼女の釈放を求める運動が展開した。彼女が収監された刑務所まで、正義を要求している座り込みの情報がもたらされた。刑務所の外では、セレナータが謳われることもあった。「マグダレナ、私たちはあなたをとても愛している」という大きな声が彼女まで届いていた。
 マグダレナは、サンティアギート刑務所に1年、テスココ市のモリーノ・デ・フロレス刑務所に6カ月と5日収監された。「私を勇気づけたのは、私は権力者が指弾するような人間でないということだった。いつの日か、刑務所を出て、無実を証明できると考えていた。私は誘拐犯ではなく、闘争や変革について話していただけである。誰も、私の中に何も悪いことを見つけ出せない」。まるで昨日のように、刑務所で生活した日々を思い出しながら、マグダレナは語ってくれた。「私は何も罪を犯しておらず、無罪が確定し、刑務所を出所した。実際に悪いことをした連中は、拘束もされず、そのあたりを臆面もなく歩きまわっている」。
 私自身は、家族の誰かが私に会いに刑務所に来てほしくなかった「面会の署名も連中は念入りに調べるので、家族が刑務所に何か痕跡を残してほしくなかった。こうすれば家族を護れると私は思った」。出所するとすぐさま、刑務所前広場で座り込みを続けていた「別のキャンペーン」の所に赴いた。そして、別のキャンペーンの仲間とグアダルーペ寺院まで徒歩で向かった。

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釈放後、連れ合いとグアダルーペ寺院へ

 マサワの仲間は釈放された彼女を呼び出し、公道での仕事を今後も止めないと伝えた。「私は回り道をしたけど、こうしたことに気付いた。私は気力を奮い起こした。何が冗談で、何が法なのか?私はほかの仲間と再組織化に着手した。朝5時、市政府と交渉するために役所の門の前に立った」。こうして不当な収監生活から「公道上の不当極まりない生活」へと変わったものの、「私たちがいる空間が尊重されるよう、私は闘いと抵抗を継続した」。そして現在も闘い続けている。無主の空間や母なる大地は私たちを養っていると確信する。私たちはそこから生活の糧を得ている。だから闘いは続く。

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記念碑の横で刺繍製品を売る

リンゴやミカンに石油やガソリンがまかれ、三つ編みの髪が切られる
 サンホセ・デル・リンコン行政区サンアントニオ・プエブロ・ヌエボは、住民500人弱の小さな村である。大半の家は住人が不在なので扉は閉まっている。20世紀半ばからメキシコ市に移住だした先住民マサワの村である。初めは、農閑期だけメキシコ市に移動していたが、徐々に定住しだした。70年以上も前から、マリアという名称は、人種差別に満ちたメキシコ市の街路で果物、菓子、民芸品を売って生活するマサワ女性に与えられた蔑称である。彼女たちは自らを移住者でなく、メキシコ市の居住者と思っている。二つの概念は同じではない。市民の権利、なによりも居住の権利を要求している。

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サンアントニオ・プエブロ・ヌエボの風景

 村に点在する住宅は多様な形態である。マグダレナが育ったトタン屋根で地面にゴザを敷いて寝るという木造住宅がある。これは昔の伝統的な住宅で、薪を使う竈がある台所は離れた所にある。今では、徐々にアルミサッシの窓や扉がついたセメント・ブロックやレンガ造りの住宅が建てられるようになっている。カリフォルニア風の外見をした住宅も数軒ある。それは、国境を越えた出稼ぎに行った人たちの想像力の産物だが、米国から帰国する人は次第に少なくなり、多くは送金するだけするようになっている。どの家にも、丸屋根に十字架がついた小さいが優雅な祭壇が敷地の中央にある。

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出身地の教会前の広場

 一見したところでは、誰もいないように見える。しばらくして、数匹の牛、ひとつがいの馬、数匹の犬、そして数人が横切る。この村では、家族全員がそろうことはほとんどない。「女性は家族ができ、子どもを持つようになる。私の場合、メキシコ市に僅かばかりだが露店設営のための歩道の権利を受け継いでいるので、この村に戻ることはなくなった。
 私たちのものであり続けるその露天設営のための歩道は、私たちの働いて食い扶持を稼ぐため、家族や村人が勝ち取った空間である」。「私の祖父母は、リンゴ、桃、ミカン、クルミ、ペピータ【カボチャの種】、菓子を売ることから始めた」と、マグダレナは語った。彼女自身も、アラメダ中央公園、サンフアン・デ・レトラン通り、イダルゴ大通り、ブランキータ劇場正面、タクバ通り、レフォルマ大通りなどで、こうした商品を売っていた。          

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ソカロ隣接のポルタルでの露店

 マグダレナは、当時の迫害、差別、虐待を鮮明に覚えている。「2週間も投獄されることが少なくなかった。私たちは女性用の一時留置場であるラ・バキータ【雌牛の意味、男性用はトリート(雄牛)と呼ばれていた】に連行された。商品のリンゴやミカンには、売れなくするため、石油やガソリンがまかれた。気に入らないという理由で、私たちの三つ編みの髪が切られることもあった。私たちは長い髪にリボンや髪飾りをつけることに馴れていた」。 
 1970年代になると、当時の大統領ルイス・エチェベリア・アルバレス【1970-76年就任】は、「先住民が自分の共同体に戻る」という計画を思いついた。政府内部では、「先住民はよく思われていないので、メキシコ市内に居場所がない。出身地に帰るほうがいいと言われている。私たちが祖父母のもとに帰るには何台のバスが必要だろう。しかし、先住民は次のように返答した。私は自分の国メキシコにいる。ほかの国にいるわけではない。こうして私たちはメキシコ市内で働き続けた。私は民芸品を売る仕事が気に入っている。マサワの仲間の多くは、果物、焼きトウモロコシ、果物、チチャロンやポテトフライといった揚げ物などを販売して食い扶持を稼いでいる」。 
 続けて彼女は説明した。その時期、「多くの人は先住民などいないと考えていた。私たち先住民はもう絶滅したと考えていた。しかし、メキシコ市ではマサワの女性、カボチャの種を売るマリアが増えていることが分かっていた。マサワの女性と分かると、私たちはひどい差別、抑圧、とてつもない人種差別を受けることになった。政府はそうした問題を解決せず、助長していた。私たちは、ラ・メルセー市場【ソカロ東の巨大市場】の一つの大回廊に連れて行かれた。そこで、私たちはシャツの袖、襟、ブラウス、ハンカチ、花瓶敷、眼鏡ケースなどを刺繍することになった。そこで私たちは支払いを受け取っていたが、金額は覚えていない。私はそんな作業したくないと言った。一週間毎日、働きに来るより、路上で物売りの仕事をしたい。私たちは当局に追いまわされていたが、刺繍よりはるかに多くのお金を稼げた」。

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菓子(コカダス、アレグリア、パランケタス)

 彼女は活動家仲間ではドニャ・マグダレナとして知られる。彼女は僅かばかりの賃金で刺繍をすることをやめ、路上での物売りを続けることにした。1972年、セリア・トレス【メキシコ小規模商人革命的運動指導者、後PRD議員】という女性と知り合い、労働条件向上を目指し一緒に活動しだした。例えば、その年には、「リンゴや種子を地面に置くかわりに、果物を置けるテント地の木製の踏み台のようなタイヤが付いた荷車を手に入れた。よいできで、リンゴを手にするため、わざわざ屈む必要はなくなった」。        
 同じ時期、セリア夫人の事前の根回で、マサワの女性は、モレロス、グラナディタス、マルティネス・デラ・トレ、ラ・ビジャ、サンフアン・デ・レトランといった地区の市場でも、路上販売ができるようになった。マグダレナはテピート地区に近いグラナディタスの市場で物を売っていた。「私の祖母がそこに大きな露店を持っていた。だけど、私の一番お気に入りの売り場は、ラテンアメリカ搭があるアラメダ公園だった」。セリアと一緒に活動して私が習得したのは、組織化と自己防衛の仕方だった。

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ラテンアメリカ搭とアラメダ公園

 押し寄せる波のようにメキシコ市に来たマサワの人々は、当初はメキシコ市中心部の歴史地区の一角で暮らしていた。最初の人々はベルサリオ・ドミンゲス通10番地に居を定めた。その前には、「ロマス・デ・チャプルテペック【メキシコ市西郊の丘陵】の洞窟で暮らしていた」と、マグダレナは説明した。マサワの人は商いで生計を立てている。家族の必要なものを満たす点で「大地はほとんど何も与えてくれない」ので、人々はメキシコ市に居住し続けた。1980・90年代にはメキシコ州ネサワルコヨトル【メキシコ市東隣の低所得者が集住する行政区】やチャルコ行政区に居住するようになった。

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マサワ女性の伝統衣装で路上販売

 「私たちが働き続け、誰も私たちの邪魔をしない。そうなったら、私たちは生き残ることができる。そうすれば、教育を受け、病院で長い列に並ばなくても個人医の診察を受けることができる。尊厳のある住宅で暮らすことも可能になり、電気・水道代、家賃も支払える。たとえ、フリホール豆だったとしても、手に入れることができる」。問題は、「私たちが自由に働けないことである。私たちを支援しない法律が制定されることである」と、彼女はまとめた。ある日、「休暇で出かけ、メキシコ市に戻ると、市民文化法が再び制定されていたこともある。それはマルセロ・エブラルド【2004年市政府交通局長、2006∼12年市長】が定めた法令で、庭園、公園、歩道を清潔にするため、そこで営業活動を禁止するものだった【2004年8月制定】。そうなれば、メキシコとしてのアイデンティティが失われてしまう。アラメダ公園では、綿菓子、リンゴ、風車、風船が売られていたのをよく覚えている。アラメダ公園はとてもメキシコらしかった。カートや独楽をもった子どもたちが集まっていた。しかし今は何の面影もない」。

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CIGポスターをもちアラメダ公園デモ

 マサワ女性代議員の意見はこうである。「もし、先住民の路上販売者が望ましくないのなら、民芸品広場を設営することもできる。そこでは、民芸品の製造者や販売者、誰もが尊重される。私たちは文化面ではけっして貧しくないが、金銭面で誰もが本当に困っている。言葉、衣装、慣わしや習慣、社会の在り方が尊重されることを私は夢見ている。メキシコ市でどのように生きていくかを決定するのが私たち自身であれば良いと考えている。差別と抑圧、ひどい人種差別がこれ以上なければいいと思う」。

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メキシコ市居住の先住民女性

幼少期のマグダレナは学校が嫌いだった
 観光地バジェ・デ・ブラボ【メキシコ州西端の湖を囲むリゾート都市】に近い「嫁として出た家」の生垣に座り、マグダレナは「とても素晴らしかった」と幼少期を回想してくれた。当時、「歩きまわり、深く息を吸い込み、遊ぶ空間がいっぱいあった。ケリーテ【食用の野草】、ジャガイモ、キノコ、ソラマメなど畑から収穫できる食物はどれも身体に良いものだった」。「メキシコ市にいた時、母親は私を身籠った」けれども、マグダレナは幼少期をサンアントニオ・プエブロ・ヌエボで過ごした。両親が飼っていた羊、ロバの群れと小さな牝牛数匹の世話をしていた。記憶の中でもっともよく覚えているのが、「雨が降り、一帯が緑となり、白、赤、黄色の花が咲き誇る時期のことである。女の子は全員、その花で花束を造り、8月15日【聖母被昇天の祭】に、畑が喜んで奇麗に見えるように花束を畑に捧げていた」

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出身地の木造小屋

 幼少期のマグダレナは学校が大嫌いだった。実際、「学校では、読み書きができないと定規でひどく殴られていた」ので、学校は恐ろしい所だった。彼女は祖父母と暮らし、祖父母も彼女が殴られ、叱られることを望んではいなかった。だから、祖父母は彼女を無理やり学校に通わせなかった。当時、馬に跨った村の代理人は子どもをかき集め、学校まで連れて行っていた。代理人に見つからないように、マグダレナは背丈のあるカヤの陰に隠れていた。「教室に一度も足を踏み入れてないが、少しは読み書きを習得した」。その後、両親とメキシコ市内で暮らすようになると、マグダレナは故郷の村と行き来するようになった。それは14歳までで、その後は祝祭があっても村に戻ろうという気持ちはなくなった。

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連れ合いのドン・アルフレッド

 彼女がドン・アルフレッドと呼んでいる男性と結婚してから、41年が経過している。彼を知ったのは村に戻った際である。彼は「慎ましく質素で貧しく誠実で正直な人」である。個性の強い開けっぴろげな性格の彼女は、村の古臭い習慣を無視し、すぐに彼と一緒になった。「私から誘って彼のもとに行ったの」と、マグダレナは悪戯っぽく笑いながら言った。結婚してからメキシコ市に戻り、1980年に6人の子どもの最初の子を産んだ。現在では、14人の孫がいる祖母である。「そのことをとても誇らしく思うわ。孫や子どもたちは両親や義父母の未来、種子にほかならない。私たちは貧しくても幸せだから、私は神に感謝している。病気にならなければ、私たちは生活を支えるために働き続け、将来起きることに対応できるから」。

起きていることは不当だから、私たちは組織化した
 ドニャ・マグダレナは組織化に着手した。「私たちへの弾圧がとても厳しかった時期、20数人のマサワの男女と一緒に先住民路上商人としての労働の権利が尊重されることを目指した。私たちの身に起きていることは不当極まりない。1996年4月15日、私たちは集まった」。みんなの合意で、路上で働く権利の認可を取得するため、市政府を訪れた。しかし、「時には私たちも間違いを犯すことがある。許可申請の相手が誰かを知らなかった」。すでに路上販売する空間を手にしていたのは明白である。必要なのはそれが尊重されるようにすることだった。
 市役所事務所から全国先住民庁(INI)に赴き、「私たちの空間が尊重されるための措置」を要請することになった。返ってきたのは、「政府機関のINIはそうした措置はとれないが、技能研修の実施は可能」というものだった。全員がINI提供の研修に参加することになった。それは長い目で見ると、別の空間での戦いに結集していく基盤となった。「研修を受ける過程で、多くの不正があるという自覚が私に芽生えた。私たちは虫けらのように見なされ、他者を汚染する恐れがあるので受け入れられないことを知った。そこで体験した活動のすべてが、私たちを前進させるものだった。労働、健康、教育、正義の分野で私たちは極めて劣悪であることを理解するようになった」。
INIでは、市内居住の他の先住民、主にオトミ、トゥリキの人々と知り合った。マグダレナはマサワ移住者組織ラ・ホジタに結集する26名のマサワ女性の代表だった。
 INIでは、「ひとりの人物」が彼女たちのために先住民の権利に関するワークショップを組織してくれた。「彼にとっては明白だった。私たちの望みは、公道での商いに関する問題に対応するため、私たちを支援することだった。私たちは助言や支援以上のものを要請する気はなかった」。やがて、マグダレナはさまざまな言語集団からなる14組織が参加する先住民組織連盟の代表に任命された。「この段階で、ワークショップを組織した親切な男性と私は、メキシコ市で大集会を開催し、25以上の組織が切実な要求を携えて参加した。私たちは、そうではないにもかかわらず、先住民は弱い存在として扱われてきたかを訴えた。私たちは何かをやる能力のある存在である」。彼女が言うには、集会ではそのことは自明のことであった。

サパティスタとの出会い
 このように彼女が闘っていたなかで、1994年元日が来た。「INIの研修を通じて、私はサパティスタ運動を知った。テレビや他のメディアがサパティスタは土地を争って殺し合っていると言っていたので、私は恐怖を抱いていた。INIの研修では、サパティスタにラモナ司令官【1959~2006年、チアパス高地先住民ツォツィルのEZLN司令官】という背の低い女性がいることを教えてもらった。ほかの女性とともに女性革命法を制定したことを知った。その法律では、連れ合いの男性が酔わずに自覚を持つため、共同体に酒類を持ち込むことは禁止されている。また、メキシコ市の私たちの闘争とチアパスでのサパティスタの闘争を比較したらとも言われた。私たちは住宅を、サパティスタは屋根ある建物を、私たちは教育を、サパティスタは学校を求めて、闘っている。サパティスタをどう評価するのかと尋ねられた際、「それは私たちの闘いでもある。まったく同じ闘いである」と私は答えた。

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メキシコ市UAMでの講演

 マグダレナは回想しながら語った。「先住民女性が出産時に体を洗えないため死ぬことについて、私たちは話し合った。不浄でなくなるまでと追い返され、家に戻る時には死んでいる。先住民であるというだけで。貧しくスペイン語をうまく話せないだけで、子どもは小学校に入れず、わずかに許された空間は公園か地下鉄ぐらいで、そこでチューインガムを売るしかない。子どもたちの門戸は閉じられている。住宅に関しても、私たちの場合は、4メートル四方の部屋で、5・6家族が子どもたちと暮らしている。イワシ缶のように4分割された部屋に押し込まれて暮らしている」。
 その後1997年、サパティスタ一行がメキシコ市を訪問した【1997年9月12日、サパティスタ民族解放戦線創設集会に参加】。ドニャ・マグダレナは3人のマサワ女性の仲間とショチミルコにサパティタの一行を迎えに行った。「全国協議のために1,111人のサパティスタが到着した。マサワ、トゥリケ、オトミの女性の仲間を集めるのが面倒だとは思わなかった。その後、「大地の色の行進」の際には【2001年2-3月】、安全警護の輪に参加し、宿泊場所である国立人類学歴史学学校に一行を連れていった。さらに、サンラサロの国会に同行し、国会ではエステル司令官【モレリア・カラコル地区出身司令官】が文書を読み上げた。何もかも感動に満ちたものだった」。

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サンクリストバル市でのCIG創設集会

 こうして先住民運動へ参加してきたため、先住民族開発委員会【2000年発足の先住民対策機関】の責任者ショチトル・ガルベス【オトミ出身起業家、2000~06年に初代総裁】がマグダレナを探し出し、審議官として働くように要請してきた。「良いことかもと考えたわ。だけど私たちは政府からの施しはまっぴらだと言ってきた。その政府がなぜ私を誘うのか?フォックス政権【2000∼06年PAN政権】も従来の政権となんら変わりはないと、言われていた。だけど彼女は先住民の仲間だからいいのではと、その時は思っていた。  
 ショチトルは、私が必要と思ったから、招請したと説明した。私は問い返した。どうして私が?読み書きなどが何もできなくてもいいの?彼らはそれでもかまわないと言った。私の頭や心、身体は誘惑に負けそうになった。しかし、記憶はそうではなかった。トウモロコシ、フリホール、土地、水、ホテル、北米自由貿易協定が話題になった際、政府はこれまでと同じことをするだけと、私は言った。政府が豊かにするのは企業家だけで、農民は自分が生産したトウモロコシを売ったり、トルティリャに加工したりできない。こうしたことや同意できないと発言した私のことを彼らは奇妙に思った」。  
 「私は一年間を失ったが、サパティスタを見捨てはしなかった。CNIの集会に参加し続けた」と、マグダレナは言った。ラカンドン密林第6宣言委員会、「別のキャンペーン」など、メキシコ南東部から届く様々な行動要請に参加しながら、闘いに全面的に参加している。2016年10月のCNI創設20周年の集会で、EZLNはサンクリストバルに参集した代議員に代替案を準備しているかと、問いかけた。「サパティスタは私たちが分析・検討する提案を持ち寄った。権力掌握ではなく、闘争が可視化できるように、共和国大統領に先住民女性を立候補させるという提案だった。自らの歴史を良く知り、闘い続け、記憶を保持しているのは先住民女性である。私は個人としてそうすべき時期であると発言した。私たちはそれが実現可能とは思わないが、一瞬であれ驚かせることができる。そう考えるようになった」

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ソノラ州でのマリチュイのキャンペーンに同行

 まる一日をかけ提案は討議され、先住民族ごとに協議するという結論に達した。「それは合意の一つである。別の合意は12月半ばに先住民族の代議員が結論を持ち寄ることになった。メールで結論を送付できない場合、個人的な意見でも構わないことになった。先住民族の大多数は、基盤の人々から、基盤の人のために、今展開している闘争を通じた再組織化を呼びかけるサパティスタ提案を了承した。そして先住民女性の大統領候補ではなく、先住民族や基盤にいる人々の声を皆に伝える女性広報官と位置づけるべきだという声が上がった。実際の大統領候補はCIGメンバー全体でなければならない」

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マリチュイの代行でコリマ州キャンペーン

 マグダレナは闘いを継続してきたメキシコ市の代議員である。「今はもう居住していないマサワの共同体の代議員ではない」。彼女たち代議員の関心は、大統領の座ではなく、組織化である。「特権のある椅子に座ることに関心はない。関心があるのは、人々の声に耳を傾けること、破壊されたものを再建すること、生活のため、未来のため、子どもたち何かを遺すために闘うことである」。
 各代議員の責任について彼女は次のように説明する。「協議を展開し、学校、主婦、共同体で提案を共有することである。基盤から着手し、協力して活動することである。最優先すべきはどう推進するかということである。先住民族の中で活動しているCNIの代議員もいる。彼らと協力しながら、「こうした状況におかれた私たちマサワの女性が望んでいるのは、これこれである」と助言できる。私が代議員として発言しているのではない。基盤にいる人々が、自分たちが暮らす空間が尊重されるにはどうしたらいいか、自分たちの住宅として何を望んでいるかについて、言っていることである」。

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2020年10月オトミのINPI本部占拠

ランチェラや歌が大好き
 一目見た印象では、マグダレナは生真面目で、怒りっぽく、物悲しいように見える。しかし実際は、まったく反対である。彼女は歌や踊り、冗談が大好きである。「私は台所でいつも歌っている女性の一人だわ。だから、私のことを一杯ひっかけていると言う人もいた。そんなことはない。酒が好きなのは本当だけど。ランチェラ【メキシコ独特の農村風の歌】や歌も大好きだわ。私が怒りっぽいという人もいるは。だけど、それは私の表現の仕方だと思っているわ。お願いなんかしたくないのよ。刑務所から出た時、私のことを「お前はサパティスタだ」という人がいた。だけど、私がサパティスタでないことは残念だわ。だって、サパティスタはとても規律があるけれど、私はまったく無鉄砲だから」。 
 マグダレナは自分が強い人間であるかどうか分からない。人生を通じて分かったことは、彼女と同じように多くの女性は生れた時から抵抗していることである。「なぜなら女性たちはいつも遠ざけられている。発言する機会も奪われている。女性は家の雑用にしか向いていないと思われている。しかしそれは違う」。彼女は主張する。もはや、「私たち女性は、連れ合いであろうがなかろうが、男性とともに歩む時が来ている。一人も女性がいない闘いは闘いとは言えない。闘いは対等な形で女性と男性が担うものである。これまで、いつも男性が展開する闘いだったので、私たち女性は何もできないと思い込んでいた。しかし、私たち女性もできる」。
 このように断言するのは、メキシコ市内の留置場に拘留された何十人もの先住民を釈放した一女性である。彼女自身も1年半にわたる不当な拘留を体験した。出獄すると闘いに戻った。キノコ、ケリーテ、炒ったソラマメ、ジャガイモ、フリホール、米やカボチャを食べ続けるためだった。そうすることが大好きだったからである。

動画
報告動画 https://youtu.be/lO3XJD5AbfI
2014年カフェ・コマダンテ・ラモナでのスピーチ https://youtu.be/xr8zUtUnhWg


























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