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サパティスタ武装蜂起30周年記念式典の報告 グロリア・ムニョス

2023年12月30日から2024年1月2日にかけて、チアパス州オコシンゴ行政区の北部にあるカラコル・ドローレス・イダルゴで、EZLN武装蜂起30周年記念集会が開催され、延べ1.3万人が参加したといわれる。以下、『オハラスカ』320号に掲載された、グロリア・ムニョスのレポート「忘却との闘いの30年」を訳出する。

忘却との闘いの30年 グロリア・ムニョス

 サパティスタ武装蜂起30周年記念のため用意された巨大な広場は人であふれかえっている。子どもや若者たちは、次々と広場に登場し、いろんなパフォーマンスを繰り広げる。女の子の任務はひとつ、女の子でいることである。男の子も同じである。自転車に乗り、飽きることなく走り回り、夜明けまで踊り続ける。それはサパティスタの偉大な勝利のひとつである。言うまでもないが、彼らはそのことを誇示している。

会場を警護する女性民兵

 このイベントの紛れもない主役は若者と子どもたちであり、運動が若く陽気で活力に満ちたものであること示している。この場所を警備している民兵の若者は、サパティスタの政治的メッセージ、今後の提案に関して説明する役割も担っている。
 共同の土地、所有者が存在せず、サパティスタに属さないだけでなくかつては敵対していた家族を含め皆で耕されている土地である。

女性同志の共同労働

 これは初めての試みであると主張する人々がいる。土地に関しては初めてかもしれないが、PRIや他の団体に所属する先住民に対するサパティスタのサービス提供は初めてではない。例えば、予防接種キャンペーンでは、サパティスタ組織に属していない人を差別することはなかった。医薬品提供でも差別しなかった。サパティスタの司法制度では、関係機関で対応してもらえなかった組織や政党の人々が抱えている問題の解決にも対応している。協働することは日々の実践であり、進むべき道であり、サパティスタが目指している地平線である。 

上映中の『ラ・モンターニャ』

 巨大な可動式スクリーンでドキュメンタリー映画の『ラ・モンターニャ』〔2021年5月からのサパティスタ欧州派遣の海洋班421部隊を扱ったもの〕が上映されている最中、会場の端のベンチでコーヒーを飲みながら、夜明けが近いのも忘れ話す40歳前後の男性がいた。老人委員会の「責任者」の息子だったヘラルドは物心のついたときからサパティスタ支持基盤の一員だった。
 1994年1月1日、彼の村や峡谷の支持基盤組織が戦争に突入したとき、彼は10歳だった。この地域は、オコシンゴ市場周辺の路上でメキシコ国軍に留めの一発を受け殺された民兵の遺体を数多く引き取った。それは蜂起の初期の戦闘でもっとも苛烈な戦いだったとされている。
 ヘラルドは、祝祭を照らしているスポットライトの列を指差し、「あれを設置したのは僕だよ」と、誇らしげに言う。
 1994年にサパティスタが占拠した旧大農園のドローレス・イダルゴにあるカラコルを記念式典のために設営するには多くの作業が必要だった。何百ヘクタールもの耕地は、蜂起した共同体によって分割された。

会場となったカラコルの全景

 ヘラルドと家族は20年前にここに来てから、共同労働で土地からもたらされるものを食べ続けてきた。「分け合ったものはどうなるかって?」と自問自答した。「つまり土地をもっていなくても、ここには土地がある。耕し方がわからないなら、僕らが教える。やる仕事はいくらでもある」と言い、「多すぎるぐらいだ」と付け加えた。
 話していると、ヘラルドの妻が10歳と7歳の幼子を連れて近づいてきた。「お子さんたちは1994年のサパティスタの孫ですね」と、私はヘラルドに言った。「ひ孫もいるよ」という返答があり、「計算してみて」と言った。戦闘中には、民兵の子どもをつれた父親たちも見られた。

グロリア・ムニョスの『EZLN,10年・20年 銃と言葉』

 ヘラルドの妻ロサリアは、はからずも私を心地よくしてくれた。「義父が『銃と言葉』という本を持っている。夫は若い時に読み、私も読んだわ。今は子どもたちが読んでいる」。暗闇なので彼らの素顔は見えない。私に顔がよく見えていないことを知って、二人は楽しくコーヒーを飲み続ける。 
 1994年1月、私たちジャーナリストは初めてこの地域に到着した。サパティスタ領域への入り口は、パティウィッツ渓谷からだった。サン・ミゲル、ラ・ガルーチャ、プラドは、第一世界と思い込んでいた国〔1994年の北米自由貿易協定で先進国の仲間入りと思い込んでいた〕で武器を手にしたマヤの人々に会いに来たジャーリストの一行や市民社会のメンバーを受け入れた最初の共同体だった。
 これらの村では、多くのものが欠落していたことは一目瞭然だった。土地、健康、住宅、仕事、食料、正義、教育、民主主義、自由、独立、女性の権利、教育を要求し、メキシコ国家に宣戦布告するに至った原因について多くを尋ねる必要はなかった。
 7歳から12歳の女の子は、人形ではなく、幼い女児を背負っていた。農村部では、子どもが畑で働くことなどごく当たり前だった。子どもたちになかったのは、学校や診療所だった。サパティスタの自治組織がそれらを作ったのである。
 現在も、子どもたちはトウモロコシを挽くのを手伝い、共同体生活の一部として幼な子たちを世話している。だが、その姿は30年前とは大きく隔たったものである。子どもたちはサパティスタとして生まれているからである。 

バスケットボールの試合

 子どもたちは読み書きを覚え、地域によって短パンやスカート、ズボンと異なっているが、バスケットボール、バレーボール、サッカーを楽しんでいる。教育や保健衛生の推進員をしている。30年前のように、外部の人に物乞いする子どもの姿はない。それどころか、彼らの共同体では望めば誰でも無償で食事できる。
 協働の在り方がどの地域でも同じではない。それは言うまでもない。だが、人々は協働しながら活動している。
 数年前のことだが、ブラジルの若い活動家ジョアナが、多くの国際主義者と同じように、闘争について学び、何か役に立とうと、別の渓谷にやって来た。最初は小学校で自治教育の推進者の手助けをしていた。あるとき、幼年期と呼ばれる悪童がもたらした大混乱に、彼女はつい声を荒げた。突然、女の子が机に上り、彼女を遮るように、「がみがみ言わないで。私がサパティスタなのを分かってないの」と、8歳そこそこの小さな怪物が言い放った。
 何か恐ろしく強いものが生まれていたのである。少女は「サパティスタであること」を遊びを続けるパスポートとして使っていた。そう、遊び続けることはサパティスタであることなのだ。

遊ぶことがサパティスタの特権

 2023年12月31日 正午
 演劇、踊り、いくつもの音楽に参加するため、いくつものグループが広場に集まっている。グループはサパティスタ領域全体からやって来て、それぞれ独自の出し物を演じる。何カ月もリハーサルを重ねてきた。サパティスタ支持基盤の若者や子どもにとって、リハーサルは自分たちの歴史と将来を学ぶ集中講座のようなものだった。

広場で演じられる多様なパフォーマンス

 彼らの登場で、突如、広場はマルティフォーラムへと変わる。一度にいくつもの出し物が進行するので、どこに行けばいいのか、わからなくなってしまう。山々に抱かれた冬だが、熱気むんむんのエネルギーが迸っている。
 チアパス高地のオベンティクから来たグループは、1994年のアグアスカリエンテスの誕生と最初の自治行政区のことを演じている。巨大な横断幕で当時のサパティスタ反乱領域が表現されている。

プラカードもったパフォーマンス

 「私たちは、マニュアルのないまま、失敗や成功を重ねながら前進してきた。そうやって保健、教育、協同組合、女性の参画が生まれてきた」という声がマイクから聞こえる。最後にこう言う。「道を歩みながら私たちは学んできた。当時も今も、自治には悪しき政府の法律が入り込む余地はない」。
 別のパフォーマンスでは、自治行政区に対する攻撃が再現されている。1995年、1996年、1997年の暗黒時代さながら、国軍兵士の恰好をしたサパティスタの若者が進路にあるすべてを破壊しながら登場する。

国軍兵士や警察の暴力に抵抗する

 「悪しき政府は私たちを殲滅しようとした。自治行政区を軍事化し、私たちを分断し、御用報道機関は、サパティスタは降伏し、お恵みを受け取っていると報じてきた。そうした噓に私たちは抵抗する」このように別のパフォーマンスで述べ、証拠もあげている。
 準軍事組織として、オコシンゴ・コーヒー生産者地域組織(ORCAO)、平和と正義(Paz y Justicia)、チンチュリネス(Chinchuilines)、ロス・アギラレス(Los Aguilares)などの名前が挙げられる。「私たちは挑発に乗らず、準軍事組織に抵抗する」理由について、「抵抗とは単に耐えるだけではなく、構築することを意味する」と説明する。
 続いて、アグアスカリエンテスをカラコルに変えた過程、当初の5つから12にカラコルが増えた経緯についても説明される。パフォーマンスでは自己批判もみられる。すべての援助が平等に分配されたわけでも、すべての当局が説明責任を果たしたわけでもない、そうした事実についても彼らは語る。
 先住民の権利と文化に関するサンアンドレス協定は、1996年に政府によって否認され、その後2001年には国会議員らによって無視された。そこで、サパティスタは、いかなる政党であれ先住民の運命を変える改革を履行する気のない連中と決別する方針を明らかにした。「法律の有無、政治屋連中の有無にかかわらず、私たちは自己統治していく。このように私たちは答えた」と、長い三つ編みをした若い女性は語る。
 さらに、2003年から今日まで、善き統治評議会を通して展開された自己統治の経験に関するパフォーマンスもあった。突如、大きなカーニバルが始まった。健康、教育、住民登録、集団的労働などに関するパフォーマンスが、同時に上演され、踊られだした。「私たちは成長した」と、円形劇場から聞こえてきた。

銀行家、教会、兵士など「悪しき者たち」

 「悪しき者」の表現は、麻薬のフェンタニルを摂取した人物を写したビデオにそっくりである。サパティスタ組織が成長するとともに、銀行家、地域ボス、兵士、政府、準軍事組織、教会の様子はおかしくなっていく。彼らはお互いに引っ張り合うように、画面から消えていく。
 1994年以来、サパティスタの祝祭には、演劇やコーラス作品がつきものとなっている。歴代政権をユーモアを交えて辛辣に描いてきた。自分たちのことすら、笑いの対象にしている。苛烈な攻撃を受けている最中も、ユーモアはサパティスタの武器となってきた。

両洋連結鉄道とマヤ鉄道の列車、工事用重機

 子どもや若者の隊列が、マヤ鉄道や両洋連絡鉄道を象徴する段ボール製の列車を担いで運んでいる。列車は草木や動物を根こそぎにしながら進んでいる。「人々から略奪する」現在の大規模開発計画から誰も逃れられない。伝説的なクンビア 『赤リボンの女の子』のリズムに合わせ、抵抗することを宣言する。
  女性たちはあらゆる場面に登場するが、女性復権のためのパフォーマンスもある。『戦う少女たち、万歳』、そして革命歌 『生命のために戦おう』を歌う。
 30周年記念式典では、長年見慣れてきたいくつものシンボルが姿を消していた。サパティスタ賛歌も歌われず、武装した叛乱戦士の姿もなかった。モイセス副司令官、元日の午後に何も発言せず短時間登場したマルコス隊長を除いては、叛乱戦士の姿は見えなかった。

モイセス副司令案とマルコス隊長

 公式コミュニケはなかったが、サパティスタ広報官〔モイセス副司令〕のツェルタル語とスペイン語のメッセージがあった。サパティスタは人を殺さないが、迫害されるなら防衛する方針であることが明らかにされた。

演壇上のモイセス副司令官

 巨大な演壇に不在者の椅子とともに置かれた横断幕には、サパティスタの闘いは、資本主義に反対するものであり、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアでの生活を分かち合っていくためのものであることが記されていた。演壇の下には38本のキャンドルとEZLNの戦死者の写真25枚が並んでいた。

ポップコーン部隊

 ポップコーン部隊は自転車でそこらじゅう走り回っている。おおよそ5歳から9歳までの少年少女で、楽しむことがその任務である。そして、外部から来た子どもたちが、自然を粗末にして楽しまないようにする監視する。40歳、30歳、20歳の彼らは、まだ始まったばかりだ。
 

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