『老アントニオのお話し』の続編

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はしがき

 今後、順次公開していく予定の『老アントニオのお話し』(全7部構成)について、簡単に述べておこう。『老アントニオのお話し』に収録されているお話しの語り手は、老アントニオだけではない。すでになくなっている大昔の先祖たち、村や共同体の長老などである。とりわけ、2006年から2007年にかけて実施された「別のキャンペーン」のなかで公表されたお話しの多くは、訪問先の先住民共同体などで語り継がれてきた伝承が題材となっている。
 このうち、はじめにと第3部までのお話しのほとんどは、2005年3月に現代企画室から出版した『老アントニオのお話し―サパティスタと反乱する先住民族の伝承』に所収されているものである。一方、第4部と第5部には、それに収録できなかった2003年以降に発表のお話しなどを翻訳紹介することになる。

全体の構成

はじめに(今回)
第1部:ボタン・サパタ
第2部:われわれの背後には、あなた方であるわれわれがいる
第3部:トウモロコシの男女
第4部:大地の色の行進
第5部:先祖たちの語り
これからも

はじめに


1 アントニオは夢見ている (1994/1/27)

 アントニオは夢見ている。
 土地は耕作する者たちのものである。流した汗は、公正かつ誠実に報われる。無知を治すための学校や、死を追い払う薬がある。家には明かりが灯り、食卓には食物がある。土地は自由である。統治し、自己管理しているのは、人間の理性である。自分だけでなく、世界と調和する。
 こうした夢を実現するには、戦わねばならない。生命のため、生命を賭けねばならない。アントニオはこのような夢を見ていた。
 アントニオは目覚めた。何をすべきか?彼にはわかっている。しゃがみこんで炉の火をかき立てる妻の姿が目に入る。息子の泣く声が聞こえてくる。東の空に顔を覗かせた太陽を見ながら、彼はマチェーテの刃を研いでいる。
 一陣の風が巻き起こり、すべてが彼を目覚めさす。アントニオは立ち上がり、人に会いに出かける。誰かが彼に言ったことがある。彼が望んでいることは、多くの人が望んでいることである。仲間を探しにいくのだ。
 副王は夢見ている。すべてを扇動する恐ろしい風によって、彼の土地がかき乱されている。略奪したものが奪われる。邸宅が破壊され、彼が統治していた王国は崩壊する。悪夢のせいで眠れない。副王は封建領主のもとに出かけた。彼らも同じ夢を見たという。副王は落ち着かず、かかりつけの医者を同伴する。
 衆議一致した。これはインディオたちの魔術のせいだ。この邪術から逃れるには血が必要だ。副王は命令する。殺せ、投獄せよ。もっとたくさんの刑務所と兵舎を建設するのだ。悪夢にうなされ、副王は眠れない日が続く。
 この国では誰もが夢見ている。もう、目覚める時がきたのだ。

挿絵


2 拍手で迎えられた (1994/8/3)

 1985年、われわれは、初めて一つの集落を占拠することになった。トウモロコシ畑と焼畑が終わった後の二次林、ちっぽけなバナナ畑とコーヒー園に囲まれた数軒ほどの小屋には、誇り高くエヒードの名称が記されていた。それは老アントニオのエヒードだった。
 1994年、老アントニオは死に抱擁された。その9年前、彼はわれわれを自分のエヒードに招待した。われわれはその集落、エヒードを占拠する計画を練っていた。コーヒー園で少し道に迷ったが、われわれは老アントニオが暮らしていた小集落の占拠に成功した。

 だがわれわれは三枚目を演じることになった。われわれが到着した時、人々は集落の中央に集まっていた。老アントニオは、密林の都市工学用語で集落の中心に当たる場所にいた。老アントニオは、教会と小学校、バスケットボール場のある場所でじっと待っていた。  
 
 「山から同志たちが到着した」と、老アントニオが紹介し、人々は拍手しだした。  
 私は考え込んだ。「なんてこった。今年は調子が悪そうだ。何も言っていないのに、拍手されるなんて」
 人々の拍手が終わると、老アントニオは言った。「われわれのあなたへの挨拶は終わった。さて、あなたは自分の言葉を発してもよい」

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サパティスタの村(ベアトリス・アウロラのイラスト)

 この地では、誰かに何か挨拶するとき、人々は拍手する。こうして、そのことを私は学んだ。だから、私としては、拍手ではなく、挨拶をお願いすることで始めたい。この瞬間、メキシコの農村や都市で、民族民主会議の第1回集会がうまくいくようにと、祈り、お願いし、懇願し、指を交差させ、望み、切望するすべての老若男女への挨拶をお願いしたい。この地にはわれわれも相当数いるので、彼方の地には少なくともその倍はいるだろう。

3 老アントニオの教え(1995/6/20)
 
 質問することは、歩むこと、動くことに役立つ。そのことを老アントニオは教えてくれた。イカルとボタンの例を示しながら、老アントニオは、質問し、それに答えながら歩むことで、…新しい質問や回答を導き出すことを教えてくれた。今、われわれは、彼が教えてくれたこの道を歩みつづけている。われわれは質問し、…その答えを待っている。

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4 ドニャ・フアニータ(1996/3/11)
 
ここまで書き終えたとき、私の所にやってきたのは…ドニャ・フアニータ。
 老アントニオが亡くなった後、ドニャ・フアニータは、コーヒーを準備するのと同じぐらいゆっくりではあるが、その生命の炎を削っていた。彼女の身体はまだまだ丈夫だったが、ドニャ・フアニータは自分の死を予告していた。彼女の視線を避けて、私は言った。 
 「婆ちゃん、馬鹿なことは言わないでよ」
 彼女は私を叱りつけるように言った。
 「いいかい、おまえ。私たちは生きるために死ぬのだ。だから、誰も私が死ぬことをじゃまできない。おまえのような若輩者にはとうていできはしない」。
 老アントニオのつれあい、ドニャ・フアニータは、その生涯を通じ、当然ながら死に際しても、反乱する精神をもちつづける女性である。

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先住民ツォツィルの老婦人

 5 人と空腹のお話(1996/6/9)
 
 ここメキシコ南東部の山中では、忍耐と希望をもって何百年も抵抗してきたように、ツェルタル、チョル、ツォツィル、トホラバル、ソケ、マムの数千もの家族が今も抵抗している。皆さん[仲間に一粒の穀粒を!平和のため、飢饉に反対する全国キャンペーンでチアパスまで食料を運搬した人たち]は、自分たちの力で、忍耐と希望が強化され、救いとなるように実践している。ここでは、時間と生命とが競争している。
 「これからは飢餓の時だ。そして飢餓の時になると、時は人を殺そうとする。唯一、希望だけが、時によって傷つけられた人間を癒す」
 老アントニオがこう言ったのは、10年前の6月のある夜明け前、畑でやっとトウモロコシの芽が出ているのを見たときである。
 「小屋にも畑にトウモロコシは残っていない。飢餓の時だ。待たねばならない時だ。さあ、畑がトウモロコシで緑に彩られるのを想像しよう。さあ、乾いて硬くなったものを雨が和らかくすることを想像しよう。トウモロコシや雨は、われわれに待つことを教えている。抵抗するのだ。死んではならない。そのようにわれわれに言っている。トウモロコシが小屋に届き、真の男や女たちの食卓に届くときが、もうすぐやってくる。彼らに染みついている硬い土地の苦痛を雨が洗い流すときがもうすぐくる。だが、まさにそのときまでに、多くのものが死んでいく。飢餓や苦悩のほうが、そのときよりも勝っているからだ」
 老アントニオは一人のこどもの亡骸を埋葬したばかりだった。女の子の墓を指し示す蔓でくくりつけられた十字架を立てた後、老アントニオは「ダメだった」とつぶやいた。その女の子は、彼とフアニータが生きてくれよと願いながら産んだこどもだった。

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ミルパでトウモロコシの取り入れ

 「飢餓(hambre)と人間(hombre)、人間と飢餓。対立するものがこう呼ばれるようになった。いちばん最初の神々、世界を誕生させた神々が、死と生命をこう呼んだ。飢餓は死と呼ばれ、生命は人間と呼ばれた。何か…理由があるのだろう」
 大地から数センチだけ芽を出したトウモロコシを失意のうちに眺めた後、老アントニオはこのように語った。彼はパイプに火をつけ、山の方に向かって歩きながら、娘の死を紛らわすための根を探しにいくので、いっしょにきてくれないかと私を誘った。
 この老アントニオの懐古談がこの集会の趣旨に沿っていないことは承知している。だが、わずかばかりのトウモロコシ畑の正面にある山の上に、視界を汚すように三台の軍用ヘリコプターが飛ぶのを見たとき、私はこの話をふと思い出した。ヘリコプターは兵士を運ぶだけで、トウモロコシを運びはしない。彼らは飢餓と戦争を約束し、平和や生命を不意討ちする。

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「平和のため、飢餓を撲滅しよう!」と、キャンペーンは呼びかけていたのでは?
 「そのとおり」と、老アントニオは私に答えた(そのとき彼はかなり前を歩いていた。というのも、私が山を登るときに転ぶことは、メヒコ南東部の山中で伝説となっていた)。いつものようにパイプをふかしながら、私を待っていた老アントニオは言った。
 「それは、結局は同じことを意味する。人間のために、そして死に反対!」
 御存じのように、闘争と希望の再解釈に関しては、老アントニオに勝る者はいない。
 そう、本題からはずれている。そのことは承知している。ありがとう、そして、われわれはここで皆さんを待っている。皆さんに言うべきことはそれだけだった。そのこともわかっている。だが、皆さんも知っているように、6月の夜明けには、雨が降り、息苦しくなり、不眠不休…そして、老アントニオが現われてくる。
 さて、もういいだろう。では。

 
6 雨(1996/12/3)

 密林と歴史の奥まったところにある村では、太陽と時間を追いかける長い蛇のような川岸に沿って、先住民の小屋が点在している。
 老アントニオは、小屋のなかまで入るようにと、私を招き入れることはなかった。太陽の日差しや雨が激しくなると、彼は小屋の暗い入り口に姿を隠した。老アントニオは、扉の支柱のところで応対した。その人物が重要であれば(老アントニオの基準では、その人の言葉に耳を傾ける価値があることを意味していた)、コルク樫の丸太の端を勧め、老アントニオ自身は、門番のように、身体をなかば出しなかば入れて、扉の敷居にしゃがんでいた。
 何年か後、ある激しい雨の日、私は老アントニオがそのような行動をしてきた理由を発見することになった。激しく降りつける雨やあられを避けるため、私は本能的に小屋のなかに入ろうとした。老アントニオは手で私を押し留めた。小屋の中に姿を消すと、ナイロンの切れ端をもってきた。無言で、私にコルク樫の丸太の上にナイロンの切れ端を広げてくれた。
 やがて雨が過ぎ去り、天井や私の帽子から水が滴りだした。私は老アントニオが渡してくれた布切れで武器を拭きはじめた。
 「雨が降っているのに家の中に通してあげなくて、申し訳ない」と、老アントニオはしゃがんだ格好でわびた。
 「家の中のほうは、とても惨めだから…誰も招き入れたことはない…その人が惨めになってしまうからな。人を招き入れるときは、楽しいことを提供しなければならない。好意をもっている人に対してはそうするものだ」
 こうつぶやきながら、トウモロコシの葉で巻き煙草を作りはじめた。
 「水といえども痛みをもたらすことがある。しかし、乾いたままであるほうがさらに痛いものである…そのことをおまえはよく知っているはずだ」

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サパティスタの家族

 

7 明日というパンの材料のお話(1997/7/17)

 黄金色の風車が引き起こした吹き荒れる風とともに、この地までいろんな知らせがやってきた。善悪は別として、一部のニュースを受け、お二人に挨拶し、思い出のお話をするため、われわれは手紙を書く気になった。
 ドニャ・クリスティアーナ[カルロス・パヤン夫人。先住民の伝統文化の保存運動に携わる。直後、癌で死去]のことはよく覚えている。1994年、われわれが彼女と話し合ったとき、彼女は、トニナー遺跡[オコシンゴ東郊にあるマヤ遺跡、現在は軍が駐留]の状況や将来をずいぶん心配されていた。彼女はこの先住民の歴史の一断片を注意深く守るようわれわれに勧告した。われわれはその遺跡をできる範囲で大切にしてきた。だが、連邦軍は巨大な兵舎を建設し、トニナー遺跡の敷地内で実弾演習をしている。われわれ自身もひとつの先住民の歴史の遺跡である。そのわれわれは抵抗を続け、ドニャ・クリスティーナの勧告を守り、われわれという記憶の一断片を大切に守りつづける。
 われわれはドン・カルロス[ラ・ホルナーダ紙創設社主、PRD上院議員、COCOPA委員]のこともよく覚えている。彼と出会うたびに、われわれは、彼の真実(残念ながらいつも一致するとはかぎらない)を追求する勇敢な責任感、批判精神と冷静さ、よりよい現在を築こうとする強情な努力を思い出す。われわれは、自分が信じていたことを修正しながら、お互いの距離を飛び越えようとできるかぎり努力してきた。しかし、悪い政府はわれわれには真実も歴史も認めようとしない。しかし、われわれは、もうひとつの強情な力である。われわれは抵抗を続け、現在が過去の悪夢を再編集しないようにする。

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トニナー遺跡はフランシスコ・ゴメス自治区

 われわれは自分たちの思い出話をしている。われわれは、われわれの過去の最良のものを取り戻し大切に扱おうとするドニャ・クリスティーナの懸念、よりよい現在を構築し大切に扱おうとするドン・カルロスの懸念を合体したい。つまり、われわれが彼らの手助けで作り出している歴史の話に昨日の一片を付け加えながら、今日を創ることにする。
 こうしたお話を創って語るのに最適の人物は…なんといっても老アントニオだろう。

 多くの人が明日と呼んでいるパンを調理するための材料はきわめて数多くある。こんな風に老アントニオは言った。そして今、カマドに薪の束をたてかけながら、老アントニオは付け加えている。その材料のひとつは苦悩である。
 大地を緑一色に染めていく七月の雨が降った後、キラキラと輝いている昼下がり、われわれは出かけた。家に残ったドニャ・フアニータは、この地で「マルケソーテ」と呼ばれるトウモロコシと砂糖でつくるパンを作っていた。できたパンは、パンを焼く容器として使ったイワシ缶の空き缶の形になる。
 老アントニオとドニャ・フアニータがつれあいになったのは何時のことか?それを私は知らないし、たずねたこともない。今日、密林のこの昼下がり、苦悩は希望の材料になることを老アントニオは話してくれた。ドニャ・フアニータは、老アントニオのために、お話の材料となるパンを焼いている。
 数日前の夜から、ドニャ・フアニータの夢は病気で苛まされていた。老アントニオは徹夜で看病しながら、お話と遊びで彼女の病気を癒そうとした。今日の夜明け前、老アントニオは壮大な見せ物を演出した。両手とカマドからこぼれる光を使って、密林にすむ数多くの動物の影絵をフアニータのために作ったのである。老アントニオの手や声とともに、小屋の壁面に描かれるのは、夜遊びをするテペスクィントレ[げっ歯類の小動物]、落ち着きのない「白い尾」の鹿、うなり声をあげるホエザル、みえっぱりの雄キジやスキャンダラスな雌キジなどである。それを見て、フアニータは大笑いした。

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 「そんなもので、私の病気は治らなかったわ。だけど、とてもおかしかった。影絵でも楽しいなんて知らなかったわ」とドニャ・フアニータは私に説明してくれた。
 その昼下がり、ドニャ・フアニータは老アントニオのために「マルケソーテ」を作っていた。それは楽しかった影絵の夜に、老アントニオが調合したが、役には立たなかった薬のことを感謝するためではなかった。彼のためでも、彼の満足のためでもなかった…
 いっしょに苦しむのなら、苦悩も癒しとなり、影も楽しい。そのことを証言するためであった。そのために、ドニャ・フアニータは、自分の両手と老アントニオの薪を利用し、イワシの缶詰の古い空き缶のなかで発酵したパンを作っている。癒しともなるこの苦悩、分かち合うパンを失わないため、われわれは、熱いコーヒーを飲みながら、ドニャ・フアニータと老アントニオの共通の苦しみの証言を糧としている。

 お二人にお話したことは何年も前のことであり、今起きていることでもある。
 今、暦のこちら側から、そしてこの思い出から、われわれはお二人のもとに届くように抱擁を送りたい。それは、お二人をわれわれに近づけ、われわれといっしょに、ただひとつの可能な形をした過去と現在を清め、大切に扱い、築きあげるためである。指針としての尊厳、そして材料としての思い出を備える過去と現在である。


8 音楽について(1999/2/20)

 老アントニオ(音楽家だったら、ブルースを歌っただろう)は言った。
 「音楽は、ものごとを知っている人だけが歩ける道を移動している。そして、踊りとともに、いくつもの架け橋を作りだす。ほかの形では夢でも見ることができない複数の世界に、あなたは音楽を通じて近づくことができる」

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サパティスタのミュージシャン


9 紙とインクの橋(1999/4/24) あなたに認めているこの文章[不当な死刑判決を受け1983年から収監されている黒人ジャーナリストのムミア・アブ・ジャマルの誕生祝いの手紙]が提起している内容について話すのはとても難しい。メヒコの政府や権力者たちにとって、先住民であること(あるいは先住民に似ていること)は、軽蔑、嫌悪、不信、憎悪のきっかけであるとでも、あなたに説明できるだろう。メキシコの権力者のいる宮殿に住みついている人種差別主義は、何百万もの先住民族に対する殲滅戦争、民族抹殺の極みまで達しようとしている。その人種差別主義は、米国の権力者がいわゆる「有色人種」(アフリカ系アメリカ人、チカーノ、プエルトリコ人、アジア人、北米インディオ、そして味気ないお金と同じ色でない全人種)に対して展開しているものとよく似ている。あなたはそれに気づいていると思う。

 われわれも「有色人種」(米国で生活し戦っているメキシコの血をもったわれわれの仲間と同じように)である。われわれはコーヒー色をしている。それは大地の色で、われわれは、大地から歴史、力、知恵、希望を汲み取っている。しかし、戦うため、われわれは、自分たちのコーヒー色にほかの色、つまり黒色を加えている。われわれは、自らを表現するため、黒い目出し帽を使っている。そうしないと、われわれの姿は見えず、声は聞き入れられない。黒色が体現するものについて、われわれに説明してくれたひとりのマヤ先住民の古老の助言で、われわれは覆面の色を黒色にした。 

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 太陽となった黒色の神とサパティスタの黒色目出し帽の誕生

 
 この知恵のある先住民の名前は老アントニオである。1994年3月、サパティスタの反乱する大地で亡くなった。彼は、その両肺と呼吸を噛み取っていた結核の犠牲になった。老アントニオは、黒色が光となり、黒色から世界の天空を彩るすべての色が誕生したことをわれわれに語ってくれた。

 ずいぶん昔(時間がまだ勘定されていなかった時代)、いちばん最初の神々が世界を誕生させる任務を引き受けたというお話をわれわれに語ってくれた。最初の神々が集まったある会合で、世界が生命と動きをもつためには何が必要なのかわかった。そのためには、光が必要だった。そこで、神々は太陽を創ろうと思った。そうすれば、日々が動き、昼と夜ができ、戦う時間と愛し合う時間ができ、昼や夜とともに歩けば、世界も歩みだすだろうと考えた。
 とても大きな焚火を囲みながら、神々は合意をえるための会合を開いた。自分たちの誰か一人が自ら犠牲となって、焚火に飛び込み、火に変身し、天空まで翔け昇らねばならないことがわかった。神々は、太陽になる仕事は黒色の任務であると考えた。黒色は用意ができていると言うと、火に飛び込み、太陽になった。それ以来、光と動きが存在するようになった。戦う時間と愛し合う時間ができた。肉体は、昼のあいだは世界を創るために働き、夜になると暗闇から光を取り出すために愛し合う。

 老アントニオはこのようなことをわれわれに語った。これが、われわれが黒色の目出し帽を使っている理由である。われわれは、コーヒー色であると同時に黒色である。しかし、われわれは黄色でもある。なぜなら、この大地を歩き回った最初の人々は、真の人間となるためにトウモロコシで創られたと、われわれに語ってきたからである。そして、われわれは、尊厳ある血が命ずるように赤色でもあり、われわれが翔ぶ空のように青色でもあり、われわれの棲家であり要塞でもある山のように緑色でもある。そして、われわれは、自らの未来の歴史を書き記すための紙のように白色でもある。われわれは七つの色をしている。世界を誕生させた最初の神々が七つだったからある。
 
 これは、かつて老アントニオがわれわれに語ってくれたことである。今、メキシコ南東部の山中からあなたのもとへ延びているこの紙とインクの橋がもたらすものをあなたにわかっていただくため、私はこのお話を語っている。

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米国刑務所に収監中のムミア・アブ・ジャマル

         

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