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マリホセ、サパティスタ欧州派遣の海洋班421部隊のコンパニェロア

 2021年5月、メキシコからヨーロッパに向かって一隻のヨットが出発した。ラ・モンターニャ号には、サパティスタ支持基盤から選ばれた4名の女性、2名の男性、そして1名のトランス(・ジェンダー)で構成される『421部隊』が搭乗していた。トランスのメンバーのマリホセ(当時39歳)は先住民トホロバルの共同体や地域で教育プロモーターの任務に当たっていた。
 以下に訳出するのは、訪問先のスイスのチューリッヒでコレクティブの前で自らについて語った発言である。
 出典は Pie de página、 2021年9月5日号
  

421部隊、左から3人目がマリホセ

チューリッヒ、スイス   
 海上キャラバン421部隊は、チューリッヒで様々なコレクティブの人と闘争の経験を分かち合った。サパティスタ民族解放軍(EZLN)の代表団メンバーのマリホセは、自らの個人的な抵抗と、集団的抵抗について語った。説明は、幼少期、サパティスモ、抵抗の三つのテーマに分けて行われた。
 活動家ドミニカがスイスのフェミニズム運動におけるトランスとしての経験を語った後、マリホセが話した。

 私はマリホセ、トホロバルでサパティスタです。これから皆さんに私のお話をしたいと思います。私のこれまでの人生に関して三つの部分けて、あなた方と共有していきたいと思います。

 いちばん最初、5歳だった頃、自分がほかの人とは違っていることを意識しだしました。小学校入学以前の年齢でしたが、私はほかの人たちと違う人間であることに気づいていました。自分が女の子であると意識するようにようになったのです。
  自分の体に何か違和感があったし、女の子の遊びが好きでした。このように私は人生の最初の段階を生きていたが、後に自分が差別されるなどとは思ってはいませんでした。小学校に入ると、学年が上の男の子たちから侮辱され、馬鹿にされだしました。軽蔑や苦悩を感じ、私はとても悲しかったのですが、こうした苦悩や不安に耐えていました。それらを胸の奥にしまっておきました。
 そんな気持ちなどは子どもの気まぐれで、大きくなれば考え方も変わると思っていました。しかし、12歳のときに男の子が好きなことに気づいたのです。とうとう、この気持ちには勝てないという気持ちになりました。男の身体をしているのに、ほかの男を好きになる。どうして私は同性の人を好きになるのだろう?こんな風に自問自答しました。
 学校で侮辱されることが増えていきました。私をもっとも馬鹿にして辱めたのは、私が同性愛であることを知っていた6年生の男の子たちでした。私は男の子たちに、同性愛ではない、私に関する様々な噂はまったくの嘘だと言って、同性愛を否定し、隠そうとしました。
 14・15歳のとき、私は自分のことを発見しだしました。自分の身体が別の身体に属していることに気づき、私の身体に何が起きていたかについて理解しようと、自問自答するようになりました。どうすれば自分の中にいるこの人格を解放できるのか?家族にそのことは言えませんでした。家から追い出され、軽蔑されるのが怖かったからです。この時期の私の人生は沈黙で、誰にもそのことについて話すことはありませんでした。
 侮辱され、屈辱を受け、差別されてき間に蓄えてき私の力は徐々に強くなりました。成長し、さらに強くなるため、それを武器、つまり手立てとして使うようになりました。私の心や頭の中では、いつの日か、私は解放され、私が何者かを人に堂々と示せるという確信が生まれていたのです。
 成長するため、自分が強くなるため、心の中に溜め込んできた侮辱を吐き出すため、私には時間や場所が必要でした。私は自分を少しずつ変えていきましたが、そのため友だちを失うことになりました。
 私が同性愛であると友人に話すと、彼らは「おまえはホモだ。おまえはマンポだ」と言い、友だちの輪から私を追い出そうとしたのです。「そんな友だちはいらないことなど、おまえもわかっているだろう。俺もおまえと同じホモと言われてしまう。だから、俺には近づかず、話しかけるな」と言って、友だちは私から遠ざかっていったのです。

出発前のマリホセ、カラコル・モレリアにて

 その頃から私はサパティスタ運動に参加するようになりました。サパティスタには二つの生き方があることに気づいていたからです。サパティスタ運動では、教育ワークショップの会合に参加し、健康に関する諸問題にも取り組みました。サパティスタの同志は誰も差別しないことがわかったのです。一部の同志は、私が同性愛かと尋ねてきましたが、私はそのことを隠していました。「そういう人間だからといって、差別はしないし、辱めることもない」と、彼らは言ってくれました。サパティスタの闘いでは、宗教、性別、肌の色を問題にしないし、唯一大事なことは自由のために闘うことでした。
 現在、私はサパティスタ運動の中でいくつかの役職を担っています。闘争の中で、私に求められてきたからです。運動に参加することで、私はなりたかった人間として成長し、自信が生まれていったのです。
 私は同志に自分が何者であるかを話し、反応を見ました。しかし私が拒否されることはありませんでした。そこで私は同性愛に関するいくつかの言説に触れました。同性愛をどのように見ているのか、どのように言っているか考察したものです。とてもいい感じで、私は気に入りました。ついに私は差別に苦しまない場所を発見できたからです。そこでは私は気に入った衣装をまとえるし、誰も私を非難しない。こう考えましたが、同志には明かしませんでした。私が今の境地に達するまで、私はゲイ、それともトランス、あるいは異性装者などと考え、こうした疑問を抱えていたのです。
 それまで、インターネットでジェンダーについて少しは勉強していましたが、自分が何になりたいのかわからず、私は混乱していました。そこで私をどう感じ、どう思っていたか、一人の友人と話し合いました。どうして私はこうなのか?友人は同志の私をそんなふうに思ったことはなく、何も問題ではないし、そんな同志を誇らしく、大切なのは何をするかであり、闘うという意思をもつことと言ってくれました。
 私にとっては肩の荷が下りた思いでした。そこで23歳のとき、その友人に自分が同性愛であることを打ち明けました。同じように、家族内でも自らを偽らないため、私が何者であるかを両親にどう告白すればいいか模索しなければなりませんでした。身を隠せる場所はたくさんあると思っていました。
 まず頭をよぎったのは、マリスタになることでした。そこでは私は差別されないからです。マリスタになると、宗教として結婚できないことになります。私は最初にそのことを思いつきました。
 その後、叛乱兵士の同志と山に行く可能性も検討しましたが、とても無理と判断しました。それは決意のいる道でとても過酷なので、山での生活は耐えられないと考えました。
 で、何をすればいいのか?家から出て、闘いも止めるとどうなるのか。今の道にはいいことがあることはわかっているので、その道を捨てて、屈辱や差別のある世界に戻ることはできませんでした。
 サパティスタ運動の外でも多くの友人と知り合いになり話し合い、彼らも差別的で同性愛嫌悪の状況の中で暮らしていることを知った。私は彼らの輪に加わり、私が彼らとは違う道を進んできたこと、私が今いる道は、彼らに比べより安全な道であることを説明しました。サパティスタ運動についても少しだけ彼らに話しました。私が夢を叶えようとしていたことで、彼らも満足し喜んでくれました。何をしたらいいのかわからないときが来る。壁に阻まれ、その年齢で何をしたらいいのかわからなくなるときが。
 道を歩いている私を見て、罵声が浴びせられるのはすごく嫌でした。子どもだけでなく、若者や家庭の親から私を侮辱する言葉を聞くこともありました。彼らに悪いことをしているかのように、憎しみを込めて私を辱めてきたのです。
 私はそうした人に問いかえしてきました。なぜ私に怒りをぶつけるのですか?私はあなた方と同じように、自分がホモ、同性愛であることを否定しません。何が問題ですか?それは私の生き方で、君の生き方ではありません。自分に家族、子どもがいるならそれを気にかけてほしい。他人の生き方に口をはさむことはないのです。
 その時点で、彼らが侮辱している人間は隠れているが実際に存在していることを私は人々に示すべき段階にいたのです。私は長い間、自分の身体に対して、独自の闘いを展開してきました。それは自らが自己成長していく抵抗そのものでした。自分自身、つまり私を不快にさせる身体に抵抗し成長していったのです。
 私はホルモン療法に頼る気はありません。知り合った人からは「違う存在になりたいならホルモン療法は」とも言われましたが、望みませんでした。ありのままの自分でいたかったし、私を好きになる人は、素の私を好きになってほしいのです。ホルモン療法は深刻な事態を招くことがあり、多額の費用が掛かります。私は自分が好きなので、あるがままに身を任せています。
 家族に隠れてこっそりと変身することを始めました。ある場所に行く際に、途中で服装を着替え、女の子の格好をし、帰り道で全部着替え、服装を茂みに隠し、何事もなかったかのように家に帰るようになりました。
 こうしたことをする前、私は両親と話すことがありました。私は両親と一緒に作業をしていた際、両親の考えを知りたくて、サパティスタ運動では差別はないと言っていました。やがて私の父親と話し合う時が来たのです。私が暮らす場所の近くにある街で私が女装している姿を見た人がいたのです。私の女装姿を目撃した話は、共同体のあちこちに知れ渡っていました。人の口から両親の耳に入る前に、私は勇気をもって打ち明けることにしました。
 両親は私の口から私が何者であるかを聞きました。両親にとってショックだったでしょうが、乗り越えることができました。というのも、私は運動のなかでこうしたに話し合いを推奨されていたからです。受け入れることに、両親は抵抗はありました。母親はありのままの私であることを喜び、素の私を愛すると言ってくれました。父親は少し動揺していましたが、構わない、何も問題ないと、言いました。それでずいぶん私も助かりました。家から出てしまう必要性はまったくなくなったからです。
 両親は私が何者であるかを知ってくれ、私は子どもの頃から助けと自由を求め続けてきた人間へと変貌することができました。人々は私の陰口をたたいたり、激しく非難したりしましたが、私は傷つくきませんでした。そうした屈辱、差別の中で長く生きてきた私には、抵抗力が備わっていたのです。
 サパティスタの同志は私のこうした変化を目の当たりにして、批判するのではなく、「なぜあなたはこうなのか、なぜ突然変わったのか」と、私に聞いてくるようになりました。私はそこで、同志たちが私たちにどのように接したかを観察することができました。批判することや裁くことではなく、最初にしたのは私に質問することでした。
 私は喜んでサパティスタの同志たちと話しあいました。時には20・30人の同志で円陣を組み、私は真ん中で、サパティスタ運動以外の場所で、幼少期や青年期に侮辱や屈辱を受けた私の苦悩の人生がどのようなものであったかを話したのです。
 闘争において私たちは誰もが敬意をもって受け入れられ、それぞれの感情を表現できる場をもてると、同志たちは私に言ってくれました。私は同志の男女を観察していましたが、同志たちは他の人々が言うように私を怪物と見ませんでした。私は資本主義が私たちを見なしてきた変態者、病人でもありませんでした。
 家父長制にとって、私たちは病人で、精神を病み、この空間で生きるに値しない人間とされます。こうした人物を排除するため、性別適合手術を行う病院が作られました。資本主義世界には雄と雌しか存在しません。 
 そうなると、私たちに何が起きるのでしょう。性転換を望む人もいます。それには多額の出費が必要で、手術室から生還するか、死体で出てくるかというリスクに曝されることになります。こうしたリスクに曝されるので、私は今のままの状態を受け入れています。私の人生や自由、身体性のため、私は闘うつもりです。
 サパティスタ運動にいると、とても素晴らしく、心穏やかになれます。こうした問題にもかかわらず、私は闘争でいくつか役職についています。私が特定の仕事に携わり、闘争における役職についていても、同志は差別しませんが、サパティスタでない人は私を差別し馬鹿にします。彼らは教育プロモーターとして私は相応しくないと言いふらします。私はサパティスタの村や地域で教育プロモーターとして活動しワークショップを開いています。
 政党支持派の人は、私が子どもにとって悪い見本で、同性愛を教え込んでいると言いふらします。そんなことはない。私たちのように幼少期からトランスだった人が何をするようになるか、私はよく知っています。私たちは同性愛を推進するのではなく、伝えているのです。私たちは誰も同性愛が何であるか教えられていなかったのです。私の幼少期、私たちはテレビを観ておらず、今のようなソーシャルネットワークもありませんでした。
 資本主義体制がトランスセクシュアル、バイセクシュアル、ヘテロセクシュアル、ゲイ、レスビアンと命名している人が実際にいるのかどうか、当時の私たちは知らなかったのです。サパティスタの私たちにとって、この言葉は、これらの人々に対する差別でしかない。私たちサパティスタはコンパニェロアという言葉を使います。コンパニェロアは、あなたがレズビアン、ゲイ、トランスであったとしても、あなたそのものを内包する言葉である。あなたを傷つけることのない一つの言葉に誰もが含まれる。


コンパニェロアの由来についてチューリッヒで話すマリホセ

 同志たちが私をコンパニェロア・マリホセと呼びかけるとき、私はとても光栄で、幸せで尊敬され、守られていると感じます。私のためのコンパニェロアという言葉は私を抱きしめるかのように多くの意味を持っているからです。こうしてこの言葉は私たちの間で使われるようになりました。
 サパティスタ運動の外部では、現時点でも、私は侮辱されることがあります。なぜなら、私たちのような人々は辱められ、使い捨てして構わないと見なされているからです。異性愛者の世界には、自らをとてもマッチョと呼んでいる人たちがいます。そうした人が私たちのような人を差別することがあります。そうした場合、差別している人の心の奥には、私たちと同じ気持ちがあることがあります。私たちが自らを解放していくことに腹を立てているのです。
 私は身をもって体験しました。初めのうち、私を侮辱していたマチョな男たちは、暫くすると私といちゃつきだし、誘惑してきます。友人と一緒のときには、彼らは正体を隠して、普通の人のふりをします。そんな時、こうした憎悪、同性愛憎悪があることに私は気づきました。人は自分が閉じ込められている場からは、なかなか出られません。私たちのように現実と立ち向かってクローゼットから脱出する勇気がある人に対して、この種の憎悪が生まれるのです。
 私は辱めを受けてきました。私を見かけた男からお茶に誘われることもありました。私が男であると分かったり、聞いたりすると、とても驚きます。私が、本当の女ではなく実際は男と告げると、魔法の時間は終わります。「ホモ野郎、なんでそんな女の格好なのだ」これが私たちが直面していることです。私はこうした人生を歩んできました。その外の世界でどのように生きるか、資本主義社会の世界でどのように生きるか。私は色々経験してきました。
 私が今お話ししていることは、私が実際に経験してきたことです。誰かがあなたに、「おまえは女じゃない。くたばれ」と言うことはとても辛いことです。私は彼らにはっきり言うことを学びました。私は誘われたら、『あなたが期待している女ではないですよ』と言います。私は彼らの今の世界で言われる存在、つまりトランスです。それでいいなら、いいです。嫌だというなら構いません。そんなことは気にしないから、話そう、お喋りしよう、あなたの人生について教えてほしいと言ってくる人もいます。一方で、トランスだとして私たちを足蹴にするとても残酷な人もいます。
 私たちが生きていく中で、孤独になったり、迷ったりすると、出口を見つけにくいものです。この憎悪と侮蔑に耐えられず、自殺する人もいます。私たちのような多くの人々が、同性愛嫌悪者の手に、抑圧的なシステムの手に落ちてしまうことは、とても悲しい現実です。
 このような私たちの存在は、ほかの人たちとの差異を生み出すものではありません。なぜなら、私たちやあなた方の血管の中には、あなた方、世界中の皆さんは誰もが同じ赤色の血が流れています。トランスでもコンパニェロアでも、赤以外の血の色はありません。 
 私たちはサパティスタとして、多くの世界が許容される世界を求めて、戦っています。コンパニェロアである私たちは、自治の闘い、サパティスタ闘争のなかで、そうした世界を築いているのです。すべてのコンパニェロア、隠れているコンパニェロア、自分が誰であるかを言うことを躊躇しているコンパニェロアを反映する存在になろうと、私たちは思っています。コンパニェロアたちが、闘い、組織し、自らの生命を防衛できるようになってほしいのです。 
 私たち誰もが平穏に暮らし、私たちが望むように生きる自由を享受できるのです。私たちがお互いに闘うことは望みません。私たちを侮辱し罵る人を私たちは憎みたくありません。私たちはそのような人と闘うつもりはありません。私はそのような人たちを無視します。私たちが対決すべきは資本主義体制であると知っているからです。それこそ、私たちが自分たちのことを権利などない異質の人間と見なしてきたことの主要な敵なのです。
 資本主義体制は、こうした人たちは存在してはならない、私たちは迷惑な存在であり、私たちのような人間は取り除くかれるべきであるという考えを社会の頭の中に植え付け、そこから憎しみが始まっているのです。もしすべてが逆だったら、もしこうした考えが、ほかの人たちの頭、人類の頭に植え付けられていなかったら、資本主義システムや家父長制システムが、私たちのような存在を認めていたなら、きっと同性愛嫌悪や差別のないまったく別の世界が存在していたでしょう。


8月15日のマドリーの集会「私たちは征服されていない」の山車の上で


 

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