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荒野に咲く花々3-ベッティナ

 水、大地、風、山を独占し、私たちをペオン扱いする
    

                                            ベッティナ・ルシラ・クルス・ベラスケス
                               オアハカ州地峡部フチタン、先住民サポテカ

                                      
    テワンテペク地峡部では多国籍企業が商品として売る目的で風を盗んでいる。こう言いながら、ベッティナ・ルシラ・クルス・ベラスケスは、鮮やかな花柄のウィピルと薄手のスカートを着て姿勢よく歩いている。フチタン・デ・サラゴサを取り囲む広大な平原には、数千もの風力発電塔が屹立している。フチタンはオアハカ州を構成する570行政区のひとつである。このフチタンで生まれ、育ち、結婚したベッティナは、先住民統治議会(CIG)の代議員の一員として闘い続けている。
 インタビューを行った11月は、テワンテペク地峡を揺るがし、フチタンの中心部の家や建物の8割強が倒壊した地震【チアパス州海岸沖が震源、州内の死者80名強】から2ヶ月後である。フチタンの通りはまるで戦場のような光景だった。重機が瓦礫を集めるかたわらで、テントは強い日光に曝されていた。さらに悪いことに雨は止みそうもなかった。9月7日のマグニチュード8.2の地震は、地域の歴史を一変させてしまった。150万人の被災者の日常生活と同じように、フチタン市庁舎の時計は止まってしまった。「私は市場に行った。文化会館や教会、学校、市庁舎、ほぼ2万戸の家屋が崩れていた。実際、フチタンのほぼすべての住民が住まいを失い、路上に投げ出された状態だった」と、ベッティナは述懐する。

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地震で崩壊した市場周辺の建物

                                       

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崩壊したフチタン市庁舎

 人々は道路に寝るための部屋や台所を急ごしらえした。装飾品も飾り付けられていた。ある所では花瓶、別の所では机にランプが置かれていた。揺りかご、ベッド、書きもの机、ミシンなどが、何もない場所、かつては家だった瓦礫の脇に広げられていた。このような状態から人々は生活を再開した。設営されたばかりの市場には、イグアナのスープ、ウミガメの卵、女性用ショール、色とりどりのウィピル、買い物袋などが並び、人で賑わっている。地震が起きた9月7日から、余震がなかった日は1日もない。しかし、この街の住民は諦めない。女性たちはなおさら諦めることはない。

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地震で崩壊のフチタン中心部

近代化は大地を汚染、鳥類を殺し、地域の植生や動物相を破壊
 ベッティナは土地領域防衛テワンテペク地峡部先住民族会議(APIITDTT)の創設メンバーの一人である。天然ガスフェノサ・ウニオン、エンデサ、イベルドロラなどスペイン系企業が着手した風力発電基地計画に対抗するために、この会議は10年前に設立された。すでにテワンテペク地峡には25の風力発電基地が建設されている。「しかし、どの風力発電基地も住民に何も良いことをもたらしていない」と、彼女は指摘する。「エネルギーを作るための風力利用を望むかどうか、誰も聞かれていない。「この土地で風力を発見した企業は、風力発電基地を無理やり押しつけてきた」と、彼女は告発する。

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2014年風力発電反対シンポジウム

    地球温暖化や気候変動といった世界の緊急事態の現実から、政治家や企業は風力発電基地を推進する議論をでっち上げた。再生エネルギーは企業主導でもたらされたと、ベッティナは説明する。人々の雇用や地域の発展を約束したが、「雇用も発展も決して実現しなかった。行政区への税金納付もなされず、税金納付に関する特別免除があったという【2015年フチタン市長は地目変更と建設認可に関連する税金納付を請求したが、企業側無視】。フチタンの風力発電企業は30億ペソ以上の税金を支払うべきで、テワンテペク地峡全域で60億ペソ以上」と、彼女は指摘する。
   ベッティナは知らないことに関しては語ることはない。先住民の学生向けの奨学金を受け、「地域発展計画、テワンテペク地峡の地域開発−領域の視点から」という論文で、バルセロナ大学で博士号を取得した【先住民研究者向け奨学金で2002∼07年在学】。企業家や政府が展開する論理は単純であると、ベッティナは指摘する。「開発と雇用のセットで来て、地域や州を近代化すべきと言う。開発という名目で、風力発電基地と再生エネルギーがやってくる」。しかし、テワンテペク地峡に住む人にとっては、「この近代化は私たちから物を奪うことを意味する。日常の生活、文化、経済、社会生活にマイナスのインパクトしかない」と、ベッティナは語る。この地に到来した近代化は、大地を汚染し、鳥類を殺し、地域の植生や動物相を破壊した。近代化は、経済活動の息の根を止めようとしている。特に影響が大きいのは、農業、牧畜、女性たちの小商いなどである。
 とうもろこしや、狩猟した動物や採集した植物に基づくサポテカの人々の食事の体系は大きく変わった。「土地を占拠する風力発電の基地ができてから、何もかも変わった。土地を囲い込まれ、以前の生活はできなくなった。社会的紐帯が壊された。それは先住民族として私たちが持つ最も重要なものである」と、ルシラ・ベッティナは告発する。

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共同体集会で説明するベッティナ

    サポテカ民族に関して、ベッティナは次のように断言する。「私たちは今までやってきた。なぜなら集団で生活しながら互いに助け合い、緊密な関係を持っている。私たちの祭り【祝祭ベラvelaは有名】はとても大規模で集団的なものだ。誰もがお互いを助けるやり方を持っている。それが崩壊しつつある。なぜなら、企業が特定の人に肩入れすることで、私たちは分断されている。特定の人に多くを支払うことで、反対意見の人たちと敵対させようとする。すでに私たちはお祭りでも一緒に楽しむことができない。私たちは分断されている。同じ地域に住む人が殺し合うところまできている」。要するに、「私たちは先住民族である私たちの習慣や社会関係の在り方を失っている」と、ベッティナは言う。
 土地買収マニュアルに厳密に従って、フチタンの土地取得は進められた。企業は一軒ごとに土地取得の金額を交渉していった。初めは、支払金額もできるだけ低く抑えた。当初、風力発電塔1基を設置する土地の賃貸に関しては、契約金1,000ペソと12,500ペソの年間借地料が提示されていた。反対運動が組織されると、企業は金額を引き上げた。つまり、契約金は1万ペソ、風力発電塔のある場所の年間借地料は2万ペソに上昇した。さらに、風力発電塔が設置されない土地区画に関しても、1㎡当たり7ペソの補償金が支払われるようになった。
 企業が住民の窮乏状態にどうつけ込むかについて、ベッティナは次のように説明する。「影響が大きい風力発電塔2基の設置に必要とされる土地区画(約5ha)を貸す場合、農家は約10万ペソの年間借地料を受け取ることになる。これだけの金額を農家に支払う企業は、風力発電基地以外には存在しない。しかし、土地や住民の生活への悪影響はまったく考慮されていない」。意味のある収入を得たいなら、最低でも複数の風力発電塔が設置できる50ha程度の土地を貸さなければならない。しかし、窮乏状態の住民の誰一人としてその規模の土地など持ってはいない。

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住宅脇に立つ風力発電塔

    困窮する農民と違って、企業は1メガワットの発電で年間300万ペソの収益を得る。風力発電塔一基で、1~3メガワットが生産できる。スペイン系企業は電力を生産しているが、他のガメサ【スペイン風力発電塔製造企業】のように風力発電技術を売る企業もある。スペイン系企業はメキシコ企業と提携し、「個別企業向け電力供給」のための合弁企業を創設した。企業が生産するのは、ウォルマート【米国資本のスーパーマーケット】、ビンボ【スペイン資本のパン製造会社】、オクソ【メキシコ資本のコンビニチェーン】、パパローテ子ども博物館【メキシコ市チャプルテペック公園の遊園地】などの電力である。それ以外にも、地峡部にはメキシコ国防省の風力発電基地がある。そしてペニョレスのような鉱山会社【グルーポ・メヒコと並ぶ鉱山企業】も自前の風力発電基地を持っている。地域の住民以外は誰もが利益を享受している。住民は実際の消費電力よりも多い電気代を支払っている。例えば、ベッティナは1,500ペソ【約8千円強】の電気料金の請求書を受け取ったという。「どうしてこんな高い金額なのか。地震から2ヵ月しか経たず、住む家もないのに」。何もかもこんな状態である。

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地峡部の風力発電基地分布

   地峡部の大部分は25の風力発電基地によって占有されている。2・3台もコンテナを連結した重たいトレーラーが、強風から身を守るために2列縦隊で進んでいる。トレーラーを倒すほどの強烈な風が吹いているからである。ベッティナと一緒に小高い丘に登ると、巨大な白いプロペラがついた風力発電塔が巨大なダーツのように一面に突き刺さっている光景を見渡すことができる。その丘からは、グリーン・エネルギーと呼ばれるものが浸透している様子が見て取れる。「再生エネルギーではない。グリーン・エネルギーだから良いというものではない」と、ベッティナは断言する。エコロジー的プロジェクトについてどのように話すことができるのか。「エコロジー・プロジェクトがやってきた時に、まず行なうのは、森林の破壊や伐採、動物の生息地の破壊である」。

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マレーナ・レノバブレ風力発電基地計画

   当然、ベッティナは風力発電についてよく知っている。「私にはグリーン・エネルギーが森林を駄目にするかは分からない」と、皮肉っぽく言う。「なぜなら、ここで行われていることは生命を根絶やしにしている」。そして次のように説明する。「開発、略奪、先住民族の自然の財産を奪うことに依拠しているエネルギーは、グリーンと言えるはずがない。住民自身がエネルギーを開発し、住民が必要としているならば、グリーン・エネルギーと言えるだろう。この意味で、住民が実際に心配しているなら、水力発電や地熱発電が多大な被害を与えるので、グリーン・エネルギーを生み出すことをやめなければいけないだろう。けれども政府は、そのようなことをやりたいのではなく、環境を考えずに、電力を売るためにエネルギーを生産する」。ベッティナは続ける。風力発電に関しても、「グリーン・エネルギーの売買権を売り出して、環境を汚染し続けている」。しかし、どれも嘘っぱちである。「再生エネルギーが化石燃料の比率を下げることはないし、住民に対して公正な環境が整備されることはない」。

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エオリカ・デル・スルの住民協議

   住民運動の高揚と法的対抗という戦略で、マレーナ・レノバブレ社のサンタ・テレサ砂州への風力発電基地建設は阻止できた【2013年10月8日サリナクルス裁判所裁定】。しかし脅威は第2段階に入った。風力発電計画は名前を変更し、エオリカ・デル・スルという名前でフチタンに到来した【2013年4月名称変更、2015年1月エネルギー省認可】。「ウアーベ地域の組織化された先住民との間で抱えた問題と同じような問題を避けるため、政府はフチタンでは自由で十分に情報が提供された事前協議というやり方を導入した。しかし実際はそうでなかった。まったく事前協議とは言えるものでなかった。なぜなら、彼らは事前協議の前に計画実施の認可を与えていた。自由な協議でもなかった。なぜなら企業と借地契約し、計画に深く関与する協力者がすでに住民の中に少なからず存在していたからだ。共同体に入るには協力者が必要なことを企業経営者はよく理解していた。今では当局の意向を受けた行動部隊までもっている」。

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最高裁に差止判決支持を要請

   2015年12月、領域防衛運動は工事差止めという形で全面停止を勝ち取った。「しかし、政府は第7管区担当判事を交替させた。先住民の考え方を考慮していた判事は、非常に危険なタマウリパス地区へ異動させられた。別の判事が第7管区に着任し、私たちが勝ち取った工事差し止め判決を覆した。企業が風力発電基地の建設・操業前なら【エオリカ・デル・スルは2019年5月操業開始】、協議は事前協議と見なせるという論拠だった【2017年4月19日、アナスタシオ・オチョア判事の裁定】。実態はまったく異なり、協議は不誠実で、既設の風力発電基地を合法的に承認しようとしていると、私たちは反論した。企業家や政府はエオリカ・デル・スルの事前協議を「モデル協議」と宣伝しようとしている。しかし、2015年差止め請求554号事案は、差止却下の取消を求め、最高裁第一番法廷で引き続き審議されている。

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林立する風力発電塔

    現在も、海や風は脅かされ続けている。つまりサンディオニシオ・デル・マールの地区役員と取り交わした当初計画の契約はまだ有効とされている。だから、条件が変わることを期待し、企業側は契約を破棄していない。一方、政府は、「じっとしているわけではない。何かを画策している。毒薬を注射し、汚染し、住民や闘いの同志や権威者たちも買収している。あらゆる場所で見られるように、金の力で、住民をコントロールしている」と、ベッティナは強調する。

個別に闘うのでは何もできない
 テワンテペク地峡はメソアメリカ生物回廊の一部である。世界で最も重要な回廊の一つだが、風力発電はこの回廊の連結性を崩している。その戦略的な位置から経済特区の一部を形成している【ZEE、2016年ペニャ・ニエト政権発表】。サリナクルスとコアツァコアルコスを結ぶ両洋横断通路の建設構想によって、地峡の自然環境は絶えず脅かされてきた。パナマ経由よりもずっと安く環太平洋経済圏に近づくため、地峡横断高速鉄道の軌道復旧と高速道路の建設は構想されたばかりの計画の一つである。

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テワンテペック地峡部と経済特区

   エルナン・コルテスが到来してから、地峡横断鉄道は着想されていた計画だ。ベラクルス州コアツァコアルコスから太平洋側地峡に至るルートはヨーロッパへ商品を運ぶ理想的な最短路とわかっていた。後に、独裁者ポルフィリオ・ディアス【1870年代から1911年大統領】がこの計画を再検討したが、テワンテペク地峡を譲渡するマクレイン・オカンポ条約を締結したのはベニート・ファレス【オアハカの先住民出身、1861∼72年大統領】だった。幸いにも、「地峡部は返還された。もしそうならなかったら、私たちは米国に附属する地域になっていた」と、ベッティナは指摘する。
 メキシコ全土と同じくオアハカ州の各地に鉱山がある。地峡部では、サンディオニシオ・デル・マールに3つの鉱山開発権が認められている。サンファン・アテペクには2つの開発権が認められ、イシュテペクではすでに一つの鉱山が操業している。金、鉄、銀、リチウムが地下から掘り起こす資源だ。また、岩塩やセメントを生産する鉱山もある。鉱山の被害はとても破壊的である。
 人々の意思の買収が鉱山会社の常套手段である。イシュカテペクでは、共同体財産管理委員が買収され反対運動は潰された。その結果、風力発電基地や送電線の建設に必要な開発権認可が進んでしまった。政府側の戦略は「共同体のメンバー数人を買収し、総会でその中の一人が共同体財産管理委員会委員長として選出する」というものだと、ベッティナは説明する。サンファン・アテペクでは抵抗運動が勝利しつつある。住民は鉱山会社のために活動していたコンサルタント会社を閉鎖し、鉱山を拒否する共同体と宣言し、首長も支持した。「まだ宣言だけで実効性がないのが問題」と、彼女は指摘する。「だが組織化は進んでいる。鉱山操業まで待てない。いったん鉱山会社が入って来たら、出ていくことはない」。
 政府発表の経済特区によって、地峡部特区は、太平洋側のプエルト・チアパスやミチョアカン州ラサロ・カルデナス経済特区とともに略奪や破壊が進展している。政府開発戦略の分析専門家は、経済特区が極めて特別なものと説明する。経済特区では、企業は税金を免除され、企業が支払う給料、ゴミ回収や道路建設など企業が必要とするサービス提供のために行政が負担すべき財源も決めることができる。当然ながら、行政区の財源は限られ、それを管理する行政区首長や議会などは一握りの者が牛耳っている。こうして僅かばかりの予算も企業に持っていかれると、ベッティナ・クルスは警告する。
 「企業は水、大地、風、山林を占有し、私たちをペオン(債務奴隷)扱いしようとする。私たちを根絶やししようとする。なぜなら、先住民族としての生き方、私たちのあり方、文化を軽蔑しているからである」と、彼女は主張する。それゆえ、「私たちは、民族や組織され人々とともに、一つの会議としてCNIやCIGに加わっている。なぜなら個別に闘うのでは何もできないと考えている」。

弾圧と投獄、迫害と脅迫
 テワンテペク地峡の人々が掲げた要求に対する答えは、弾圧と投獄というものだった。ベッティナは迫害され、殴打された。ピストルをこめかみに突きつけられ、拷問されたこともある。また、彼女は投獄され、何度かは、嫌がらせや監視から逃れるため、共同体から避難しなければならなかった。
 2012年のある日、警察が彼女の家にきて、彼女を連行した。国の資源に損害を与え、他人の自由を侵害したとして、彼女は告発されたのである。3日間の拘留後、釈放されたが、2015年に無罪になるまでの4年間、裁判に対応しなければならなかった。「あなたは人権擁護活動家と言われているが、収監されたここでは人権はない。ここは俺たちが仕切っている」と言い放ったのは、5時間にわたり彼女を不当拘束した連中だった。その5時間の間、恐怖心を与える目的で、彼女は別の護送車に乗り換えさせられた。テワンテペクの刑務所に彼女が生きた状態で収容された時、彼女はやっときちんと対応されていると思った。刑務所の外では、同志たちが徹夜して待っていた。
 ラ・ベンタ【フチタン市北部地区】にある橋で風力発電に対するデモをしていると、銃を手にしたアクシオナ社の労働者グループが来て、彼女たちを足蹴にした。死の脅迫を受けたベッティナは、3ヵ月間もフチタンから姿を消さなければならなかった。彼女が逮捕された1年後も、彼女は身を隠すことになった。なぜなら、マレーナ・レノバブレ社の工事差し止め請求が承認されたため【2012年12月7日第7管区サリナクルス裁判所】、企業は彼女と夫の殺害を画策していた。武装した殺し屋が彼女の家を監視していたので、夫妻は半年以上【2013年2∼9月】も共同体を離れなければならなかった。

テワンテペックの女性
 テワンテペク地峡では、男性も女性も、闘いや共同体や家庭での重要な決定には同じように参加する。フチタンでは、女性たちは「運動に参加し、意見を話し、意思決定する」と、ベッティナは確認する。しかし、次のようなことがあることも知っている。「そうすることができない女性も存在している。なぜなら女性たちが強い力をもつ家族でありながら、結局は一人の男の言うことに従うことになっている。だからここでは家父長制の問題が解決していると、まだ言うことはできないない」

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 G・イトゥビデ写真集

    頭にイグアナを載せた姿で女性写真家グラシエラ・イトゥルビデが紹介したテワンテペク地峡の女性たちは【Juchitan de las mujeres,1979年】、男性と一緒に漁に出かけ、畑を耕す。そして「彼女たちの手に生産物があれば、それを使える形に変え、商品として交換することができる。女性たちは、刺繍、裁縫、料理など、何でもできる」と、ベッティナは誇らしげに言う。

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   組織や闘いの先頭に女性が立つのは普通のことだ。デモで警察と対峙する時も同じである。身の回りにある道具で身を守ることもやぶさかではない。「デモでは女性が先頭にいるのが常だった。先頭に立てば、警察が女性に触れないというのが昔の考えだった。だが、その考えは終わった」。警察は女性でも無差別に殴る。それでも女性たちは前進し続ける。マレーナ・レノバブレ社の警備隊員70人が砂州に侵入した時、女性たちは投石、放水で対抗し、根棒をもって正面から警備隊に立ち向かった。また、女性はいろんな会議に参加し、発言し、議論し、決定する。「けれども、彼女たちは代表やそれに相当する役職の座などを望まない。時間の無駄と考え、彼女たちに情報をしっかり伝達する人物を代表として派遣することを考えてきた」                
   だからCIG広報官が「共同体出身で先住民語を話す」先住民女性であることは重要と、ベッティナは言う。そのことに驚いた地峡部の女性は、「深く考え始めた。先住民であること、先住民言語を話すことは何ら制約でなく、まったく逆であることは明らかである。このように考えをめぐらすことで、私たち女性はみんな強くなっていく」。「テワンテペク地峡は牧歌的でも辺鄙な所でもない」と、ベッティナは言う。マチスモが存在しているし、今でも男性が妻を殴ることがある。妻を外出させず、妻への支配権を維持しようとする。だが、ベッティナはそのような女性ではない。

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共同体集会で意見表明する女性たち

   インタビューは日曜日に行われた。CIG広報官のマリチュイとサンティアゴ・ホコテペク・チョアパンを巡回・訪問しての帰りだった。11月12日、テワンテペク地峡の共同体で最も強力に風力発電に反対しているアルバロ・オレゴンに赴いた。アルバロ・オブレゴンの集会では、誰もがマリチュイの到着を待っていた。彼女が到着すると、ベッティナが挨拶しビニサー語で話した。共同体の集会では政党についての議論があった。「政党はただ提案し、約束し、分断するだけで、言ったことは何も実行しない」。同時に領域の脅威、組織化、CNIやCIGの提案についても語られた。ベッティナは7つの原則【CNIが掲げた行動基本原則】について説明した。「説得であって論破するのではない」。また「人々の意見に従い命令はしない」。また、これから到来するかもしれない厳しい時代についても語った。

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アルバロ・オブレゴンの共同体集会所

   思春期になると、ベッティナ・ルシアは政治に参加するようになった。彼女が言うには、当時は今ほど雄弁ではなかったが、政治に参加した。13歳の時、彼女は地域の数校の中学校で組織されていた農村部の学生運動に参加した。バス運賃の値下げを求めて、学生たちはストに参加した。学生たちがまず呼びかけたのは、人民支援学生審議会を結成することだった。それは1977年で、まさに地峡部労働者農民学生連合【COCEI、フチタンを本拠に1973年結成】が大規模な組織化の活動を展開しはじめた年だった。
 母親の影響がベッティナの自己形成に大きく関わっているのは疑いない。当時は離婚が考えられる時代ではなかったが、母親はひどい扱いをした連れ合いと別れることに決めた。母親は15歳で結婚したが、16歳で離婚、実母のところに戻った。それから亡くなるまで、ベッティナの母は働きどおしだった。ベッティナと姉妹は祖父母に育てられた。祖父母が亡った後、彼女たちを養育したのは叔母たちだった。というのは、商売に携わっていた母親は、メリダ【ユカタン州の州都】やチェトゥマル【キンタナロー州の州都】に出かけ、布地、玩具、腸詰、大きなチーズ、青缶入りバターなどを仕入れて帰り、それを売っていたのである。
 テワンテペク地峡の社会での女性の主体的役割は神話になるぐらいよく知られている。知性や力、喜びなど、女性は多くに抜きんでている。お話し好きの女性は組織をまとめることにも長けている。そのため、以前からCOCEIのような社会運動でも女性は重要な役割を担ってきた。1981年、COCEIは当時不敗を誇ったPRIを打ち破り、初めてフチタン市長の座を勝ち取った。

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1981年、市長選で勝利したCOCEI

   こういった女性社会の枠組みで、ベッティナ、その先祖や子孫も育まれたのである。ベッティナは5人のなかで4番目だった。母親が商売に出かける時は、子どもたちが豚の世話や餌やりをしていた。これから、「雌豚が落ち着いているか、見ておいで」という言い回しがうまれた。つまり、子どもが家畜を世話し、大人の会話に口を挟まないのは、当たり前だったのである。

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木陰でくつろぐフチタンの女性

    大半の女性は伝統的ペチコートを着ていたが、ベッティナは幼少時から普通の服を着ていた。学校では女性は制服着用が義務付けられていた。しかし大きくなると、「抵抗と反乱」という闘いの一環として、彼女はビニサー(サポテカ)の伝統衣装を再び着ることにした。それは、色とりどりの花やチェーン・ステッチの刺繍が施されたウィピルと丈の長いフリルがついたペチコートの組合せになっている。

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女性用上着ウィピルの刺繍

 多くの先住民共同体では女性は伝統的衣装を着なくなったが、テワンテペック地峡では大多数の女性が自らの伝統衣装を着てサポテカ語を話すが、何も差別されない。地峡部地域では外部の人が祭りに参加するには、先住民衣裳を纏わなければならないことが、頻繁に見られる。テワンテペック地峡から出て、自分たちの言語を話し、本来の衣装を着ようとすると、人種差別を体験することになる。

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草原を民族衣装で颯爽と歩くベッティナ

街を歩いていると、寝るにはいくらだと叫ばれた
   ベッティナはバルセロナに住んだ体験がある。彼女は博士号取得のために国際色豊かな都市バルセロナに来た。バルセロナでは、先住民でメキシコ人女性ということで差別された。「街を歩くと、私と寝るにはいくらか、と大声で言われた。つまり、あの国で単独で行動する女性は性労働(売春)のたぐいの仕事をしていると考えたのだろう」と回想する。メキシコ市でもバルセロナとあまり違わない差別を受けてきた。ウィピルで街を歩き、ホテルやレストランに入ると、「他の人と同じようにあなたには対応できない」と言われる。だからこそと彼女は言う。「これも闘いの一部だ。あらゆる場所に誇りを持って入っていくべきである。自分の言葉を話し、食物を食べ、祭りを催し、踊りを踊ることも闘いだ。これらすべてを取り戻す必要がある。何か問題があるとしても、その問題を抱えて生きねばならない」
 中学校を卒業した彼女は、進学のためにメキシコ市に行った。まずUNAM付属の南部文理高校、次にUNAMクアウティトラン校高等教育学部に入った。大学では農学コースを専攻した。「自分の町に帰り、農業をやりたいと、思っていた」。メキシコ市に住みながら、同時にCOCEIの活動にも参加した。当時は、全国アヤラ計画調整委員会【CNPA、1979年創設の独立系農民組織】、反弾圧国民戦線【FNCR、行方不明者の母親の呼び掛けで1979年創設】、全国教育労働者調整委員会【CNTE、政府系SNTEに対抗する独立系組合】など1980年代の重要な運動が高揚していた時期だった。

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2019年再生可能エネルギーの講演(メリダ)

 ベッティナはCOCEIメンバーとしてFNCRやCNPAの活動にも積極的に参加し、多くの農民リーダーと知り合った。やがてメンバーの多くは体制側に寝返りだした。しかし、当時は誰もが戦闘的な時代だった。1981年には複数の大使館を占拠し、ベッティナは初めて刑務所を体験することになった。「フチタンの問題や不正選挙を暴露するために組織された行動で3日間留置された」。ハンストなど様々な行動を組織し、ついに新たな市長選挙を実現させた。「COCEIが、土地と共同体財産管理委員会の民主化を求める闘いから人民市議会の再構築をめざす闘いへと進化した輝かしい時代だった」。しかし何年か経つと、「運動は一握りのリーダーに牛耳られ、体制化された。今では、彼らは私たちが闘うべき敵になっってしまった。彼らは私の昔の同志だ」と、ベッティナは嘆く。
 COCEIの運動が体制化しだし【1984~88年はPRI候補が市長復帰したが、1988~2001年はCOCEIとPRD共同候補市長就任】、昔の同志は「ほかのことをするようになった」。彼女はCOCEIの活動から離れ、学問の世界に入ることにした。1986年にUNAMを卒業、農学士の資格を得るとともに、大学と運動で知り合ったオアハカ海岸部の同志ロドリゴ【オアハカ州西部海岸コスタチカのアフリカ系メキシコ人】と結婚した。その後、彼女はフチタンに戻った。その時の彼女は26歳だったが、現在まで二人は一緒にいる。

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風力発電基地の前で話す夫ロドリゴ

 その後、つねに前向きで強い性格のベッティナは、国立チャピンゴ自治大学【メキシコ州テスココの農学中心の国立自治大学】の農村地域開発の修士課程に入学した。修士課程を修了すると(2000年)、奨学金を取得し、バルセロナ大学の地域発展計画に関する博士過程に進学した。チャピンゴの街では娘たちと歩いている彼女の姿がよく見かけられた。一時期ではあるが、彼女は夫ではなく娘たちをヨーロッパにも連れていった。彼女は母親、そして研究者として生きてきた。

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マヤ遺跡での母と娘

 「テワンテペク地峡の地域開発-領域の視点から」という論文で博士号を取った。論文執筆の過程で、政府が計画する地域開発の情報を見つけ、昔の闘争の同志に情報を提供しようと思い立った。その情報とは諸企業の事業内容と収益率に関するものだった。憤った人々は組織化に着手し、2007年にフチタン領域防衛会議(ADTJ)が生まれ、2009年にAPIITDTTに改組された。会議には、サンフランシスコ・デル・マール、サンディオニシオ・デル・マール、チャウィテス、サンフアン・アテペック、タパナテペック、ウニオン・イダルゴ、アルバロ・オブレゴン、シャダニが結集し、一緒にマレーナ・レノバブレ社に対する闘いを開始した。

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APIITDTTのエンブレム

 彼女によると、地峡地帯に起きたことは「メキシコのどこでも起きていることである。だからすべての闘いが互いに連帯できれば、それぞれは小さくても大きな力をもてる。それがCNIのプロジェクトである。選挙のためではなく生活のため、私たちは組織化する」。どんな闘いでも「それを続ける意味がある」と、彼女は断言する。地峡部では、風力発電の問題を顕在化させることができた。「グリーン・エネルギーの問題点を暴露し、それがもたらす影響について議論を提起し、抵抗運動の中で活動してきた。組織化が推進され、領域防衛の新しい組織APIITDTTも生まれてきた」。
 「一握りの金持ちが一部の外国人と結託し、私たちの国を独り占めすることはダメだ。それは正当ではない。こうした状況を変革し、尊厳ある生活を獲得することを私は夢見ている。いいえ、私が強い人間かどうかは分からない。だけど私は確信する。とても強く。そのためには、私たちは気力を振り絞らなければならない。私たちには自由と生活の権利がある」と、ベッティナは締めくくった。

参考動画
・報告動画 https://youtu.be/HrIa3tX_378
・地峡部開発計画シンポ  https://youtu.be/0M90jh29Y3E
・Vientos de discordia   https://youtu.be/Y2MvuGVqEAQ




























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