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1920年代の旗袍

最近、旗袍の歴史を語る本やらブログやらSNSの投稿やらがだいぶん増えていて、そこには大体「今の旗袍(チャイナドレス)は満州族の旗袍(と男性の長袍)をルーツとしていて、1920年代の進歩的な女学生などによって生み出された」みたいなことが書いてある。

それはおおむね間違ってはいないし、私もそうだと思っている。だけど、「日常着だった時代の旗袍と今の旗袍はどこが違うのか」という視点がすっぽり抜け落ちているので、今のぴっちぴちで日常にはとても着られないようなやつと日常着だった頃のものが同一視されがちで、知らない人が読んだら、旗袍は昔からぴっちぴちなものなのだと誤解されるような記述もままある。さらに言えば襖裙(上着とスカートのツーピース)も旗袍と呼ぶと勘違いしている人も少なくない*。
*旗袍の袍は長着のこと。だからツーピースの中国服は袍ではない。

今、私たちが目にするぴっちぴちで腿までスリットが入った「チャイナドレス」のひな形は1920年代にできたものと言われているが、果たして初手からぴっちぴちの腿までスリットだったのかというと、答えは当然ノーだ。それしか選択肢がなければ、老いも若きも、デブも痩せもがこぞって日常着にするわけがない。その変遷については講演や展示図録の解説ですでに語っているので、今回は黎明期の1920年代の旗袍に話題を絞り、新たな解釈を加えつつ話を進める。

旗袍≠ワンピース

ひとくちに「旗袍」といっても、清末から現在までの間だけでも大まかに4段階に分けられるので、これをなべて「チャイナドレス」と呼んでしまうことがそもそもおかしいと私は思っている。

第一段階 満州族の長着としての旗袍(清末〜民初)
第二段階 満州族の長着と男性の長袍をひな形に再設計され、華人女性の日常着として着られた旗袍(1920〜40年代)
第三段階 ダーツや肩下がりなどの体にフィットする西洋式の裁断が普及しぴっちぴち路線への歩みを進め、さらに洋装に押されて日常着の役割を終えつつある旗袍(1950〜60年代)
第四段階 婚礼衣装や舞台衣装など、非日常着の旗袍(1970〜現在)

第一段階は満州族の衣裳で、第二段階は華人に広く着られた日常着の時代だ。そして第三段階は「チャイナドレス」のイメージに進化する途中段階で、第四段階に至って初めてそれが完成する。

中国語ではどの段階の衣服も「旗袍」と呼び、今の日本ではそれを全てチャイナドレスと訳している。中国語には「袍」という必要最低限の情報が含まれているのにも関わらず、元々はズボンを履くものだったと知る人は少ない。「チャイナドレス」と訳してしまった日本ではなおさらだ。

第一段階〜第二段階の1930年代中期くらいまでの旗袍は、下にズボンを履くのが普通だった。なぜって「袍」だから。「袍」の英訳は「ローブ(長着・外套)」であって、「ワンピース」ではない。では形がいよいよワンピースに近づく1940年代はどうなのかというと、「ドレス」と呼ぶにはあまりに日常着すぎる。洋装同様、ダーツや袖付けを採り入れた仕立てが普及し、より身体にフィットしたシルエットを目指す第三段階以降になってようやく、「ドレス」と呼べる体をなしてくる。

ズボン旗袍の下にズボンを履いた女性。ズボンに裾飾りを入れてチラリズムの美にこだわる人もすくなくなかった
(推定1930年代前〜中期・北京服装学院民族服飾博物館蔵)

こうして旗袍の歴史をたどってみると、「チャイナドレス」と呼ばれだしたのはどうやら戦後らしいということがおぼろげながら浮かび上がってくるだろう。

実際、「チャイナドレス」という言葉は戦後の和製英語と言われている。起源ははっきりしないが、1960〜70年代の日本のキャバレーで大きく割れたスリットとタイトなシルエットのセクシーな旗袍が流行したあたりではという説があり、個人的にはかなり信憑性が高いと思っている。「袍」としてズボンを履く第二段階の旗袍からは、「ドレス」という言葉が導き出しにくいこと、戦前は「支那服」と呼んでいたが戦後徐々に「支那」がNGワードになり、別の呼称が必要になったであろうことがその理由だ。

男になりたかった女たち

第二段階の旗袍は1920年代の上海で生まれたと言われているが、上海生まれの小説家・張愛玲は『更衣記』でこんな風に書いている。

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