埋め合わせのあとに

自分の中にある残骸を、1つ埋め合わせさせてもらっただけで、私の心は軽くなりフワフワしていた。あの帰り道の足の軽さを覚えているし、身体の奥底から込み上げてくる喜びも覚えている。
神様が力を与えてくださった、自分の力ではとても出来なかった…。そう思いながら帰宅したはずだった。今思えば浮かれていたのだ。この時、おかしいと気づくべきだった。本当に神様がしてくださったと感じているなら、浮かれ気分ではなくもっと神様の事を考える気持ちになるはずだと…。

その数日後、大きな落ち込みがやってきた。理由は分からないが、無性に腹が立った。その朝の祈りの言葉は酷いものだった。
「神様なんか知らん!」
「この気持ちはなんだ!」
「あの喜びはいったいなんだったんだ!」
そんな悪態をつきながら出勤した。自分でも、何が何だか分からなかった。それでも、職場へ入る前の祈りは「神様、こんな気持ちです。どうしょうもないです。どうか助けてください。助けてくれないと生きられません!」だった。

仕事しながら棚卸しをし、事務室を歩き回りながら祈っているうちに答えが降りてきた。

あぁ…私は今回の事を、頭では神様がしてくださったと思いながら、本心は自分の手柄だと思っていたんだ。しかも、相手がまた、連絡してくれることを期待して、そうでは無い現実(自分の思い通りにならない事)に腹を立てていたんだ。
こんなに頑張ったのに、これだけ?そんな、言葉のような感情のような何かが、私の中を流れていた。

神様の意志だ!と思った。気づきなさい、という神様からの導きだと…。

この解釈が正しいかどうかは分からない。なんの証拠もない。それでも、そう信じることは、少なくとも自分の欲求が満たされず、腹を立てて過食の泥沼に落ちていくよりよっぽど私の役に立つ。正しいかどうかにこだわって身動きが取れずにいた過去の私より、(真実かどうかは分からないけれど)目の前に来たものが神様の計画なんだと受け入れて生きる方がよっぽどいい。
私にこのことを教えてくれたのが、心の家路さんのブログと土曜日に開催されている諸相ミーティングだった。(まだ、理解が浅くて仲間が伝えたい事の半分も分かっていないかもしれないが…。)

正しいかどうかより役に立つかどうか(有用性)で判断する。』

大きな感情の乱れを経て、神様の意志を受け取り、私はまたひとつ自分の捨てるべき欠点に気づけた。昔なら、とっくに過食し、全てなかったことにしていた。(そしてそこから何も学ばなかった。)
真実を見ることが怖くて、嗜癖で真実を遠ざけ、自己正当化してやり過ごす。
私は悪くない!私ばっかり損してる!!やっぱり私なんか…と、自分を可哀想がる言葉(自己憐憫)を使って誤魔化し、また、自分が取り仕切る世界(自分=神、という世界)へ戻って行っただろう。
でも、今は…、今の私はこう理解している。
私の知識は、全く当てにならない。分かったつもりになっていたが、実際はなんにも分かっていないのが私なんだ。良い事はすべて自分の手柄にして、ご褒美を求める。ご褒美が足りない(自分の望むものでない)と、腹を立てて恨み、嗜癖を使ってリセットする。本当にしょうもない自分なんだ…、と。(仲間が、読み合わせ会で常々言っている、しょうもない自分を認めること。しょうもない自分でいいんです。と言ってくれていたからこそできたことです。)

そしてすぐ神様に祈った。「神様、ごめんなさい。私、こんなです。本当にどうしょうもないです。だから神様が必要です。助けてください。」

埋め合わせを実践して与えられたものは、神様がいなければ生きられない、自分の本当の姿だった。

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