最後のばあちゃんが死んだ

毎日朝起きて、はあ俺今日も生きてんのかよ早く死にてえよと元気にとぐろを巻いていた、母方のばあちゃんが死にました。

本当は、私が生まれる前に死んだ父方のじいちゃんの話を本題にしようとしていました。そしたら最後まで生きてた母方のばあちゃんが突然死にました。

いつもここに書いていた、既に死んでいるばあちゃんは父方のばあちゃんです。


父方のじいちゃんは私が生まれる3年前に「孫はまだか」と言いながら死んだそうです。
ばあちゃんはいつも書いている通り、誰にも迷惑をかけずに今私が住まわせてもらっている部屋で寝ながら死にました。


母方の夫婦はじいちゃんが変わり者で、ばあちゃんがよく旦那(じいちゃん)の悪口を、とても元気にぐちぐちと叩いてました。じいちゃんは起きてる間、ずっと煙草を吸っていました。遺品からは、誰も知りやしない大量の競馬の書類みたいなのが出てきたそうです。大阪万博も1人で勝手に行ってしまい、母(娘)が「あんた万博行ってないの?!」と学校でいじめられたそうです。

そのじいちゃんが死んだ時、初めて人の死体を見ました。あまり記憶がないですが、ひんやりしていた気がします。でも寝ていました。あまりじいちゃんの生き様を知らなかったし、ばあちゃんからの悪口と盛りに盛られた話では「慶應を飛び級で卒業してエリートなんだけど性格がごみ」みたいな事を聞かされていた記憶があります。母に聞いたら、慶應卒までは合ってるけど普通にストレート卒業だよと言ってました。

じいちゃんは生まれてから一度も病院に行ったことがなかったそうです。そのおかげで長生きできたという説もあると医者から言われたそうです。複数の癌を患っていたそうです。少なくとも重度の肺癌があったことはガキの私でも覚えています。あれだけ煙草を吸い続け、死の病院に行く直前は、身体を横たわらせる事が出来なくなり、椅子に座りながら寝ていたと聞きました。肺に水が溜まっていたそうです。

じいちゃんが死んだ時、私は中学生で弟は小学生でした。このガキどもに初めて親族の死を受け入れさせなければいけないと親達は考え、多分延命措置を辞めて今日で最期にしようと大人たちで決めた日の夕方に、私と弟は親に連れられてじいちゃんに会いに行きました。ガリガリのヨボヨボでした。少しの会話と握手をしました。人ってこんなにやつれても生きていくの?とまだ純粋だった私でもさすがに思いました。
私らガキどもは先に父の車で帰らされ、父はまた病院に戻り、日付が変わる前頃に、無言の父と鼻を啜る母が帰宅しました。じいちゃん死んだよとだけ言われました。そっか、とか言った気がします。

じいちゃんの葬式で初めて、あれなんだろ名前わかりませんが、煙草の草みたいなのをつまんで眉間に当てて隣に移すみたいなやつをやりました。なんの意味があるかよく知りません。中学生だったので制服で参列しました。

じいちゃんの火葬の日は私と弟がインフルエンザにかかって行けなくて、そのふたりを父方のばあちゃんが面倒を見てくれていたそうですが(これもあんま記憶ない)、さすがのばあちゃんもてんてこまいだったらしく、火葬立ち会い中の息子(私の父)に電話して「こっちの2人も死にそう」と病院に連れてってくれたそうです。ご迷惑おかけしました。あんま覚えてないけど。


そのあとしばらく親族はだれも死ななくて、私が新卒で地方勤務になった冬に、父方のばあちゃんが家で死にました。

今でも後悔している事があります。当時車営業をしていた私は、運転初心者なのもあり、車のエンジンをかけたらフロントガラスが真っ白に曇ってしまう事態となりました。上司も先輩も、だれも電話に出てくれなかったので、仕事中に初めて実家の固定電話に連絡しました。父が出てくれました。前が見えないんだけどどうすりゃいいのと聞き、あれしてこれしてやれば直ると教えてくれて、解決はしました。でも電話の向こうのすぐそばには、おそらく昼食後のばあちゃんが座ってたと思います。私は「ばあちゃんに代わってよ、ばあちゃん元気?」とまで聞きませんでした。年末帰るからその時会えればいいと思っていたからです。

その日の夕方にばあちゃんは死にました。

夕飯時に父がいつもばあちゃんを起こすのですが、返事がないので今日は寝てるのかと判断したそうで、でもなかなか起きて来ない、おかしいなと思い、父がばあちゃんを触ったら呼吸と脈がなかったそうです。

あの時ばあちゃんに電話を代わってもらって一言でも喋ればよかった。
会社からは年末年始休暇に繋げて忌引きをもらい、前倒しで実家に帰りました。当たり前ですがばあちゃんは安置室で冷たい身体で寝ていました。澄んだ顔をしていました。生存者のエゴですが、安らかに死ぬとはこのことかなと思いました。
でもこのばあちゃんは、息が苦しくなると夜中でも家族を起こして救急車を呼んでいたので、もしかしたらもうちょっと生きたかったのかなとも思います。分かりません。でも旦那が死んでから30年近く生きてたので凄いなあ。自分の気持ちなどをほとんど言わない人だったのでどうなのか分かりませんが。


父方のじいちゃんは、私の父は相当嫌っていたみたいです。夜な夜な遊んでは朝帰ってきて早々、詳しく書けないような他害を繰り返し、息子(私の父)に仕事を継げと言い、反抗した父は一旦外で正社員で働いたけれど、なぜか実家を継いだそうです。なんでか理由は忘れました(父は生きてるのでまだ聞けるけどまあいいか)。
父は自分の人生を親に支配されるのが嫌過ぎて、父ちゃんからはよく「親が産んだとしても子供はてめえの人生を生きるべき、だから父ちゃんはお前にあーせーこーせーとうるせえことは言わねえ、ただ身体は売るな」と言ってくれます。

遺影のじいちゃんと生きてる父ちゃんはそっくりです。じいちゃんは若くして死んだので、私が小さい時、父ちゃんに「あの人父ちゃんにそっくりだね」と言ったら「本当に嫌いだから言われたくねえんだ」と言われました。じいちゃんは若くして死んだので、当時の父ちゃんと遺影のじいちゃんが同い年くらいで余計似ていたんだと思います。我ながらどちらもイケメンだと思っています。


余談ですが昔の私は父似と言われていたのですが、最近はお母さんに似ているねと言われます。異性の親に似た方が美人になる説を若干信じている私は、これでいいのかなあと頭の片隅で考えます。ちなみに母もかなりの美人です。母の20代の頃の写真が大量に出てきた時、集合写真でも一発で分かるほどの美貌過ぎて、スマホで写真の写真を撮りまくり、フォルダにアルバムを作るくらいには美人でした。結構マジの聖子ちゃんです。もちろん娘フィルターがかかってます。


話が逸れました。父ちゃんがじいちゃんを嫌いだった理由を先日ほろほろと聞きました。母方も父方もボケたり認知症になる家系ではなさそうなのですが、じいちゃんは最期のほうは少しおかしかったそうです。世の中が嫌になって、物理的にも精神的にも暴力的だったそうです。
私が初めてリストカットをした時、なぜ切ったのか分からなくて調べまくった話を以前書きましたが、女性は自傷、男性は他傷(他害)の傾向があるそうです。じいちゃん鬱だったんじゃない?と聞いたら父ちゃんは「まあ〜もう死んだから分からんな」的な事を言っていた気がします。あんまり深掘りされたくなさそうだったので、私が死んだら早くじいちゃんに会って話を聞きたいです。世の中の何が嫌だったのか、息子に家業を渋々継がれた事が気に食わなかったのか、頭が良くて政治家がごみすぎてイライラしてたのか、少しでもいいから聞きたい。
でもそのじいちゃんに「じゃあなんであんたは腕切ってんの」と聞かれたら答えられません。依存だからです。聞くのやめよ。


今の時代は、精神疾患を盾にして乱用したり、自称発達障害者が居たり、心療内科をメンクリと略される程には精神病が主流?になってきていますが、昔は精神病や発達障害なんか恥ずかしくて誰にも言えやしないだろうし、ましてや会社を経営する大の男がうつ病やらなんやら言われたらそれはそれでプライドズタボロだと思います。でもじいちゃんの「世の中が嫌になったそう」という父ちゃんの話でなぜか私は安心しました。もうこの世にいないし、違う時代を生きてきたけど、同じ血が流れていた人に、私と同じような気持ちになっている人がいた事に安心しました。いやでも私はどちらかというと自分が社会に適合できず嫌になってる側ですが。

父ちゃんがじいちゃんを嫌ってばっかなので印象が悪かったけど、少ししか話を聞いてないのになぜか勝手に親近感が湧いている私なので、死んだらばあちゃんだけじゃなくてじいちゃんにも会いたいという気持ちが増しました。じいちゃんには「私が孫だよ、どう?」と聞きます。俺に似てるなと言って欲しいです。ばあちゃん嫌な顔しそう。


私は親族が死ぬと夢で生き返る夢を必ず見ます。

母方のじいちゃんの時の夢は忘れたけど、ばあちゃんたちは2人とも安置室で目を覚まします。父方のばあちゃんの時は、赴任先から手土産を持って帰ってきたので「これありがとね〜食べるわね」とか言って安置室で上半身を起こして、下半身は冷たいままでした。なぜか触らなくても分かりました。私はジャージ姿でばあちゃんの安置室にいました。「母ちゃんに怒られるから寝てて」と焦っていました。なんでばあちゃん起こしてんの、と怒られる気がしていました。夢でした。


母方のばあちゃんは、死んだ日の夜にもう目を覚まして家に来ました。深夜2時くらいでした。安置室でんん〜と言って目を開け、気付いたら場所が安置室から実家のリビングに変わってました。生前早く死にてえ、早く迎え来いよと元気に怒っていたので、生き返ってしまってからまた元気に怒り始めました。なんで戻って来ちまったんだよせっかく死ねたのに畜生、などと言ってました。安置室帰るわ〜と言い、てか、父方のばあちゃんもいました。父方ばあちゃんはお節介さんなので「安置室まで送ってってあげたらいいじゃない」と息子(私の父)に言うのですが、私の父は「いいよ1人で帰してやろう」母「帰ってる間にまた死ねるでしょ」など意味不明の会話が繰り広げられていました。帰路中に死んだら轢かれたりしてせっかくの綺麗な死体がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん、、などと思いましたが、安置室に戻ったばあちゃんはまた眠りにつきました。でも寝相が悪過ぎて布団からだいぶ身体がはみ出ていました。夢でした。


生前、元気に怒り狂っていたばあちゃんは、万博にひとりで行くなど家族サービスゼロのじいちゃんの遺影に向かって、毎日こんちくしょうと怒鳴っていたそうです。

ばあちゃんはひとりで生活するのが面倒だから老人ホームに入れてくれ、と自ら娘に相談してホーム生活をしていました。そこでも元気に、若い介護士やボケ老人にちょっかいを出して楽しんでいました。毎日迎えを怒りながら待っていました。


死んだ日は、介護士さんと普通に会話していたところ、「あ、」とだけ発して急に意識がなくなり緊急搬送され、そのまま死にました。
心拍数が0から動かない心電図を初めて見ました。父は泣きました。母はやっと休めるねというような顔をしていました。私は、仕事辞めたよ、じゃあねと耳元に話しかけました。

私はばあちゃんの元から離れて待合室で待っている時にめそめそと泣きました。綺麗に死ねて羨ましい、もうこの世で生活しなくて羨ましい、あたしもはやくそうなりたい、いつまで親に頼りまくって一般人から白い目で見られる生活をしなきゃいけないんだろうと思いました。ばあちゃんが死んだ事はあっぱれでした。お疲れ様という気持ちです。やっと死ねたね。もうこんな社会お手上げだよね。じいちゃんに喧嘩売ってもいいけど口喧嘩だけにしといてね。


私は帰ってきてから生きたばあちゃんに会えなかった事は、意外と後悔していませんでした。でもばあちゃんも派手好きなので、私の金色に染まった髪と無限に穴の空いている耳を、生きたばあちゃんに見せたかったです。腕は心配させるので隠しといたと思います。もう死んじゃったから一方的に伝えることしか出来ないけど。

ばあちゃんはよく私に「あんたの花嫁姿を見ないと死ねないよ、いい男いないの?」と嬉しそうに言っていましたが、見せれずしてタイムオーバーとなってしまいました。ていうかごめんなさい多分一生結婚できないわ。ごめんな。七五三の写真を棺桶に入れるそうなので、それで勘弁してください。すまんほんと。

ばあちゃんの遺書はとてもシンプルでした。遺言書はありませんでした。私も遺書がありますが、携帯やクレジットカードのパスワードは何とかサブスクリプションの解約がどうのとか、あとはLINEのこの人にだけ一報入れてくれ、とか暗号だらけで嫌になりました。書き直そうかな。自害を決めたら全部自分で解約して、知人にも忘れられた頃にひっそり死んで、適当な親戚に埋めてもらって終わりでいいです。


ばあちゃんを安置室に置いた帰りの車で、人が死ぬと面倒な事が多いなと父ちゃんが言いました。じゃあ自殺したら相当面倒だろうなと思って、やっぱり親が死んでからじゃなきゃ死ねないか、、と思いながら次誰が死ぬ?と聞いたら父ちゃんだそうです。もう典型的なかかあ天下ラブラブ夫婦なので、仮に母が先に死んでも追うように父も死ぬと思います。でもこいつら、ぽっくり逝くか、あと30〜40年は生きます。とっても元気なので。私はあと10〜20年で死にたい。20年?無理無理。ええ、絶望なんだけど。
どっちが先に死ぬか勝負だね、と言ったら「誰と誰が?あんたと私ら?やめてよね」と言われました。同じ気持ちです。
親に早く死んで欲しいのではなく、私が早く死にたい。前も書いた通り、お陰様で実家は過ごしやすいので感謝でしかないのですが、はやく死にたい。先逝く時はなるべく遺族が簡易的な処理で済むようにしておこう、と静かに心に決めました。


ばあちゃんが羨まし過ぎて、久しぶりに大量に腕を切りました。気持ちよかった。興奮し過ぎて無地の枕に血が飛び散りました。畳にも染み込みそうでしたが、ギリセーフでシーツが血を受け取ってくれました。ナイスキャッチです。気温が上がってきたからなのか切る場所が良かったのか、私の腕はどくどくと脈を打ちながら流血していました。私は生きていました。でもばあちゃんは死にました。じいちゃんもばあちゃんも、みんな死にました。

次の日はだいぶお腹が空いていたので、うどんを食べようとしました。でも胃がうまく働いてくれず、ほんの少ししか食べずにウィダーで誤魔化したら、全て上から戻しました。ばあちゃんが羨ましいのか、やっぱり最後に生きたばあちゃんに会えなかったのが寂しいのか、自分でも分かりません。


病院には介護士さんも来てくれていて、早く死にたいよと言うばあちゃんに対して、あと10年は生きれるわよと言っていたそうです。無理無理。あたしでも無理。毎日死にたいって言ってるんだから早く死なせてあげなよ、まあでも仕事上そんな事言えないのは分かるけど、そうね〜くらいの返事にしといて欲しかったな。ばあちゃんが「10年生きれるわよ」に対して何を思っていたかは分からないですが。私は口が滑り「10年も生きるなんかあたしでも嫌だ」と言ってしまいました。介護士さんからは当たり前のように「まだ若いんだからこれからじゃない」と言われました。とても優しい介護士さんでしたが、はぁまた健常者がなんか言ってるわ、でした。こじれてて本当にすみません。


死んだ人の娘である母ちゃんが感情がなさ過ぎて、少し心配です。全く泣かないし、死に方が本望でよかったわ、とかしか言いません。葬儀の商談とか日常生活とか、淡々と行っています。
でも老人ホームから電話が来た時は焦っていました。今から病院向かいます!!はい!はい!と言っていたので、私はついに精神科サボり過ぎて親が病院から娘を連れてこいとかいう電話かと思ったら、ばあちゃんの峠でした。

病院でダサくめそめそ泣いて、安定剤を軽く過剰摂取して落ち着いた私は、安置室でばあちゃんに両耳を見せました。どう?かっこいーでしょ?と。ばあちゃんは綺麗でした。私が実年齢より若く見られるのはばあちゃんの血なのねと思いました。肌質も母ちゃんと同じです。
話しかけ続ける私に返事をしないばあちゃんに対して母が「こんなに無言なばあちゃんはちょっと違和感ね」と言いました。



ばあちゃんが死んだ日の前の日、旦那であるじいちゃんの命日でした。 空から嫌味言われて喧嘩買いに行ったのかな。



長くなり過ぎたので、次回に続きます。

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