Ⅲ アンバランスな大乗ビート 佐野元春論/大乗ロックンロールの言葉と自由

Ⅲ アンバランスな大乗ビート
  ――繊細(デリケート)な天使、鬱な仏と出会う(九十年代後半以降)
 

(このエッセイは、2020年12月~2021年1月ころ、筆者のブログに掲載したものです。) キャリアの初期から、佐野元春は、自分に先行するアーティストたち(ボブ・ディラン、ルー・リード、ブルース・スプリングスティーンら)の「エンジェル(天使)」へ向ける視点に注目してきた。「何者からも汚されることのないシンボルだったり、あるいは敗北者たちを慰める看護婦だったり」する存在としてそれを認め、自分の歌の中にも様々に登場させてきたと彼は語る(城山編/2001 p99)。つまり、彼のロックンロールには描かれている世界を包むコスモロジックな観念があるのだ。敬愛するロック・アーティストたちと同じように。このエッセイの中でブルース・スプリングスティーンの「カトリック的」な世界観と現実の生のぶつかり合いを指摘するように、佐野はこの世界を歌う上で、宗教性を排除しない。それは、一般のリスナーが年齢を重ねるに従って、少しずつ日常生活と接した宗教性への理解を深めていく趨勢に合っている。もちろん、それは典型的な俗物の変化に過ぎない。しかし、エンジェルという存在に込めた観念を彼なりに深めた時、佐野は日本の土着宗教と習合した仏教と出会った。そこには、日本独自の変化を加えた大乗仏教があり、数え切れない歴史の変転を経て日本らしい風貌となった仏がいた。その前で念仏を唱えることも座禅を組むことも厭わない彼の胸の中には、しかしいつもエンジェルが歌い、踊っているはずだ。 日本型の大乗仏教の精神と葛藤するロックンロールであることーーこのことが、真に佐野元春を世界的にユニークな存在にしている。注目すべき事実は、佐野のロックンロールが、決して宗教的な解釈に包囲されず、ロックンロールとしての魅力を第一としていることだ。 この章では、彼が宗教に惹かれていく理由を論じた上で宗教そのものにさえ囲繞されないアーティスト性を維持していることを述べ、その可能性の中心に迫る。   ※  ※  ※ 二○一八年に「禅ビート」と題されたツアーを敢行した佐野元春。そのタイトルは、『Maniju』のナンバーから取られている。

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