「孤独」と「経済」ーー宮柊二試論(400字詰め原稿用紙約90枚一斉掲載)

序 抒情と抒情現象と(彼の二つの言葉から)


 いま、過去に書かれた短歌を読むことを、意味ある行為にしたい。
 ここで言う「意味」とは、時代や社会が与える「自由」が隠蔽する「不自由」を区劃する可能性を指す。このような視覚を求める我々にとって「短歌」は重要だ。第一に、日本の文学形式としては最古でありながら、現在でもある程度の量を持った人びとが親しむものだから(もちろん、私はあくまで関わる人の数量だけを言っている)。第二に、他の文学ジャンルにとってはほぼ絶対的な立脚点である「近代」という時代すら相対化する時間を外延として持っているから。
 折口信夫や吉本隆明、西郷信綱、その他にも様々な文学・民俗学・歴史学にまたがる研究者たちが、それぞれに考究し、自らの説を主張した日本抒情詩の発生。その諸説の検証はいまは措くとして、日本最古とされる歌学書『歌経標式』(七七二年)が残されている時点では、すでに「和歌」を問題とし得る意識は成立していたことは間違いない。
 しかし、これが「歌論」として、「和歌」に対する批評意識にまで高まったのは、大伴家持らが残した『万葉集』の「左注」が最初期のものだと考えられる。文章経国の思想を核に持つ伝統的な詩論と芸術主義的な六朝詩論や『文選』からの影響。これらを受けながら書かれている彼らの「左注」には、芸術としての短歌像・短歌観が作者たちの脳裏にすでにあったことが示されるからだ(藤平春男『歌論の研究』)。
 それから、千年を超える長い時間、幾多の歌論(短歌論)で行われた問いは、こうだ。――短歌とはどうあるべきか。
 歴史的に、その問いの本質は、あくまでも実践的なものだった。歌人達は、「歌とは何か?」とは問わなかった。ただ、「どうあるべきか?」、「どういう短歌がより大きな価値を持っているのか?」と問うたのだ。新たに作品を生むには常に「あるべき理想の姿」としての具体例が求められる。すなわち、「聖典化」した過去作品が必要となった。
 近世・江戸時代まで、すなわち前近代までの歌論の主流は、そのような「失われた正統性としての歌」を、『古今和歌集』の世界に見た。やがて、江戸期の幾人かの先行者の活動も受けて、明治以降には「国民文学」としての側面から『万葉集』が賞揚される潮流が支配的となった。これは、学校制度に乗って全国へと広がっていく(事実、『万葉』崇拝、写生顕揚という性格を強く持つ近代短歌結社最大派閥であるアララギ派には、各地の学校教員を生業とする者も多かった)。
 しかし、この正対する二者は、ともに「失われた聖なる存在」という「聖典」を置かねばぐらついてしまう「短歌」というジャンルのアイデンティティの不確かさの証左である。
 短歌に関わる者が求めるのは、「失われた理想の古典世界を現代に復活させるには、どうすればいいか」だった。「短歌」とは、歴史の長きに渡って、「聖なる真理の破壊」(ハロルド・ブルーム)を認め、それに抗し、再構築しようとする試みだったのだ。それは、あるいは「欲望の三角形」(ジラール)のモデルとして、かつてあった理想としての「短歌」の復刻に向かう。言い換えれば、社会システム論でいう「二重の偶有性」を実現せねばならないものだった。作品は作品を評価する枠組に沿って、提示されねばならなかった。応詔侍宴詩的な出自を持つ短歌は、その自意識において、他者評価を希求せざるを得ないからだ。
 失われた平安美への距離感を何重にもメタレベル化しながら幾何学的建造物さながらに構築して見せた藤原定家の活躍などは、その歴史的な極点であった。江戸時代に現れた賀茂真淵になると、「失われた聖」としての「短歌」への過剰な追求ぶりが、パロディ的に感じられるほどになったが。
 では、我々の現代はどうだろう。
 現代とは? ――我々は、次のような卑小なねじれにこそ、近代の「症候」を見る。

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