Ⅱ 歴史と例外  佐野元春論/大乗ロックンロールの言葉と自由

Ⅱ 歴史と例外
  ――無類の亀裂であること(八十年代半ば~九十年代前半) 
 
  (※このエッセイは、2020年12月~2021年1月ころに、筆者 のアメーバブログ及びはてなブログに無料掲載したものです。)
  佐野元春は、例外である。彼の存在は、現代の日本文化への転倒なのだ。日本でロックンローラーとして認知されている人物で、「詩人」というアイデンティティを同時に引き受ける人物など、滅多にいない。 もちろん、ミュージシャンとして、「詩を(も)書く人」としての活動が、佐野だけだったというわけではない。彼を主要なモチーフとして現れた尾崎豊にも、そのような活動があった。社会学者の南田勝也は、尾崎に対して「青くささやきまじめさ」を感じて嘲笑する人々もあったと指摘する(南田/2001。p174)。しかし、尾崎が、生前から「詩人」としての存在を強調したようには見えない。また、現在は作家として活動する辻仁成にも、詩人として活動がある。だが、彼もまた、佐野ほどの継続性を持たなかった。辻も尾崎も、その個人名を超える誘引力を詩作品に持たせなかったのだ。対して佐野は、自らの個性から生まれた「詩」を、自らの支配を超えたところに根付かせようとしている。
 ここには文化の活断層が露呈している。それは、ボブ・ディランを追いかけることでアメリカの生々しい一面が見えるように(湯浅/2013)、日本文化のある側面を浮かび上がらせる。

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