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平成を振り返る season 5 -Part.1-

第5回です。最後です。二日連続更新。
やればできる。僕はやればできる子、僕はやればできる子…ブツブツ…期限は過ぎているけど…


今回の企画はこれでおしまいです。平成を振り返る。
で、改めてコンセプトというか、リーダーが何を思ってつれづれ綴りたい人たちを集めたのか、というのを読み返しました。

きっかけ|つれづれつづり/000|note(ノート) https://note.mu/tsureduretsuduri/n/n2885ec6f53bc

上記参照。

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いや、これ、自分は内容を満たしているのか?と。

引用)『あの頃のくすぶっていた自分に向けて、「リアルな等身大」の文章を書くことで自分の過去を消化(または昇華)できるのではないか。そして今悩んでいる人が楽になれるのではないかと思って「つれづれつづり」をはじめてみました。』

ここですよね。
私のこれまでの文章を読んでいて楽になる人がいるとは到底思えない内容になってしまっていますね。
ただ自分のこれまでを淡々と説明するだけになっちゃった。
(他の人がやや重めの内容になっているのが多いのはこういうことかと理解)

もうちょっと、悩み多き時期のことを書いても良かったのかも、と思いました。
まぁでも、そんな悩んで生きてきてないというか、チャランポランな感じなので、悩むといっても死にたくなるような悩みは抱えてこないまま成長してしまいました。



…と書いていながら、「本当か?辛い時期あったのでは?」と、自身のことで振り返りを改めてしました。これで特になければそれはそれで良いんだけど。

例えば昭和最後〜平成初期(0〜10歳)。
さすがにここは、うん、嫌いな食べ物をどうやって避けていくか、ぐらいでしょうか。そもそもあまり覚えていない。

例えば平成中期(10〜20歳)。
思春期真っ只中で、同性に恋をしちゃったりとか、進学に苦戦したとか、そんなところです。この辺はもう書いてあるんだよなぁ。ここも特筆点があまりない。

いや、本当に他に何も無いのか?
実は記憶に蓋をしていることは無いのか?
掘り下げて辛い気持ちになることは無いのか?

ある。あります。
けど、私個人の話から逸れてしまうので、あまり綴りたく無い、というのが本音です。そういうことを綴る場所なのかもしれないけど。
自分のことだったらいくらでも話せるのですが、人のこと、となるとちょっと難しい。

まぁでも、もしかしたらこれを読んで楽になる人が1000万人に1人ぐらいいるかもしれない、ということを意識して、端折ったり、フェイクを入れたりして、少し、書きます。少し、じゃなくなりそうだけど。

〜〜〜

兄の話をします。
私の兄は幼い頃から大人しめで、引っ込み事案なタイプでした。
その割に私には横柄というか、いじわるをしてきてよく泣かされていました。
交友関係は広くはなく、特定の友達と一緒にいるような、しかも、その頻度もあまり高くない。わりと1人でいることが多い人だったように思います。

そんな兄が地元の中学で不登校になりました。入学して早々。
忘れ物か何かして、イカれてる先生に「死ね」みたいなこと言われて、それで学校行けなくなった、んだったと記憶しています。
そりゃ行けなくなるわ、と思います。第3回かな?で書きましたが、私が私立の中学を受験したのはこういう経緯もありました。変な先生いるとこ行きたくないし。

結局その先生にお咎めがあったのかまでは知りません。
とにかくそこから兄の様子がおかしくなっていきました。
カウンセリングなどを受けたりとかしていて、よく実家にカウンセリングの先生が来られていました。漫画が好きな先生で、よく漫画を借りて読んでいました。私も兄も。その頃はまだ落ち着いていたかな。

私は毎日木とか石とかと戦っていましたが、兄はきっと自分自身と戦っていたのかと思います。真面目なタイプでしたし、学校に行けないことにかなりストレスを感じていたようです。
その後鬱っぽくなり、部屋からあまり出なくなりました。
食事を部屋に運んであげた、ということも記憶にあります。
それを嘔吐してしまい、掃除したこともあります。
暗い記憶すぎて脳が消したがっており、あまり詳細を覚えていないのですが、兄が死のうとして家がバタバタしていたことがありました。この辺はしんどいので書きません。


で、結局中学校3年間の90%ぐらいを自宅で過ごしていました。小学校までは結構勉強もできるタイプだったようでしたが、不登校になってからはほぼ勉強は手をつけず、かなり同年代と比べて学力が低かったのではないかと思います。

中学を卒業し、高校はなんとか行けるとこに行っていました。
そこでは対人関係に恵まれていたり、かと思えば恵まれていなかったりして、かなり荒れた3年間だったようです。対人スキルが成熟しないまま、やや癖のある人が集まる高校に行って、難儀していたようでした。
友人とうまくいかず、泣いたり喚いたりしていたこともありました。感情のコントロールが出来なくなっていたのかもしれません。

兄は当然辛かったはずですが、親も、辛そうでした。
親族に鬱の人がいたわけでもなく、誰が何をどうしたら、どう良くなるのか?そもそも良くなるって何?どうなったら幸せ?みたいな感じでした。
そんな毎日大変そうな両親を見ていたので、私はいわゆる反抗期というものを経験していません。門限を破ると怒られる程度でしたし、それよりも兄の方が大変でした。そういうこともあって、あまり親に色々言われるとかってことはなかったです。
自分も荒れると親はもう潰れてしまうかもしれない、と幼いながらに感じていました。姉は大学に行き始めた頃でしたので、ほとんど家にはおらず、帰省しても兄にあまり関わろうとしていませんでした。
こう書くと姉が冷徹のように見えますが、姉が1人違う土地で大学生活を送っているというのは、親にとって心配でもあり、気にする要素が一つ減るということもあり、清涼剤のように働いていたようです。よく親が姉の様子を見に遊びに行っていました。これはこれで良いことだったんじゃないかと思います。

結果、家によくいるのは両親&私と兄の兄弟。兄に関わらないことはできず、「僕のことはいいから、兄に寄り添ってあげて。」というスタンスで、親のストレスを増やさないことを意識していました。
良い子、と思われるかもしれませんが、これは良い子とかではなく、自衛。ただでさえカオスになりがちな我が家がこれ以上荒れてしまったらどうなってしまうのか。穏やかな要素の一つになり、家族が壊れないようにしないとなりませんでした。
ただ、当然、毎日毎日大変な日々で疲弊しまくるということでもなく、穏やかな日は穏やか、穏やかじゃない日は滅茶苦茶、という感じでした。


あまり勉強を熱心にしているタイプではない私が、そこまで親に注意されていなかったのは、毎日楽しく学校生活を送っているだけで安心していた、というのがあるかもしれません。実際、小学校初期の頃の方が勉強をさせられていました。兄が不登校になってからは、あまり私に構っていられなかった、という面もあるかもしれませんが。

そうこうしているうちに時は過ぎ、兄も多少は落ち着き、時々癇癪を起こすぐらいに収まりました。完全に目が離せない、という状況ではなくなり、落ち着いていてくれたらとにかくそれで良い、という、やや歪んだ形のまま収まりました。
兄が落ち着き始めた頃と、私の大学受験の頃が同じぐらいの時期だったため、親はあまり休む間がない感じでしたが、なにせ兄が落ち着き始めたため、家も平穏になりつつありました。

〜〜〜

これが平成中期の出来事。以前綴ったものとは雰囲気が全然違っていますが、こういう面もありました。


『あの頃のくすぶっていた自分に向けて、「リアルな等身大」の文章を書くことで自分の過去を消化(または昇華)できるのではないか。そして今悩んでいる人が楽になれるのではないかと思って「つれづれつづり」をはじめてみました。』


どちらかというとくすぶっていた?のは兄ですが、そんな兄に対して私が接してきた方法は、正解だったのかは分かりません。
親に反抗的でなかったのは正解だったように思います。反抗期の無い人間が人として正しいルートを通っているのかは分かりません。僕もどこかしら歪んでいるのかも。
じゃあ、兄にはどうだったか。鬱の兄に私ができたことはもっとあったのかもしれません。それは何?というと難しいのですが。
私が兄とどう接していたかというと、応援するとか、辛いことがあった時に励ますとか、そういうことではなかったです。そういうのは専門の人がするでしょ、と思っていましたし、変なトリガーを引いてしまって「僕の一言が兄を刺激した」となるのは絶対に避けたかった。
かといって関わらないようにするのはおかしい、毎日顔を合わせるのに、意図的に避けるようにするなんて、できないし、そんなのは狂ってると思っていました。

なので、兄の様子、状況には一切触れない、狼狽しない、普段通りの生活をしていました。兄の様子がおかしい時に、それが落ち着くように立ち回るとかではなく、帰宅したら「ただいま〜」とか、夕飯の時は「ご飯だよ〜」とか、普通にゲームしてるとか、なんかそんな、僕が思う"日常的な日常"を意識していました。たとえ兄がどういう状態であったとしても。
やたら相談に乗るでもなく、かといって距離を置くでもなく、ちょっとブレたら壊れちゃうような距離感だったと思います。わざとらしかったかもしれないし、逆に「なんでコイツこんな何でもない顔してんだよ、今大変なのに」と思うシーンもあったかもしれませんが、家族全体がワタワタするわけにはいかないと思っていたので、そんなスタイルで生活していました。それのせいか、多少のことがあっても「平穏でいられる自分」を意識するのが得意になりました。お酒飲むとダメですけど。

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そんな、あまりブレない私を、兄は慕ってくれていました。多分。
そして今も慕ってくれています。多分。
慕ってくれているというか、何かあったらすぐ連絡を寄越してきます。「スマホを機種変更したいんだけどオススメの機種何?」とか。

兄は兄の戦場で毎日葛藤していたため、普通の、普通っていうと語弊あるかもしれませんが、平均的な男子中学生のロールモデルが私しかおらず、今世の中どんな感じ?っていう情報源が私でした。なのでよく雑談相手にはなっていたし、私がゲームしているのを見たりしていました。カードゲームだけは興味が持てなかったようでした。

私が比較的穏やかな日常を送っていることに関して、兄は羨ましそうにすることも少なくなかったです。どうしたらそんな友達できるの?とか、学校に行けていれば僕ももっと友達が多かったのかな?とか、ぼやいていました。
私も特別な訓練を受けていたわけでもなく、逆に兄は何故こんな人との接し方が不器用なのだろうか…と思うこともありました。性格の違いじゃない?とか適当なことを言っていましたが。

ただ、今思うと、兄に対する接し方が、他の人への接し方にプラスに働いていたのはあるかもしれません。過干渉せず、妙に離れず、相手の調子にこちらが左右されず、適度な距離感をそれぞれの人に持つ。
駆け込み寺のようなスタイルで過ごしていたため、あまり人が離れていくことはありませんでした。尤も、完璧に一貫していたわけでもないので多少は悩むこともありましたけど。そういう風にしていると、あまり人に不愉快な思いをさせないことが多く、交友関係に難儀しないコツを得られたように思います。
なので、その面では兄に感謝しています。まぁ、こういう書き方になってしまっているので、兄に対する不満がゼロになったわけではないのが浮き彫りになっているのですが。

あとは、親と仲が良くなりました。仲が悪かったことはないのですが、兄のことで親と協力していくことは多かったため、兄の影響でプラスに働いたのは少なからずあります。親密になったというか。親に対して使う言葉じゃ無いかもしれませんが。戦友のような感じ。

兄のことで良くも悪くも、自身の生き方が刻まれていきました。
兄がこうなっていなかったら、私はもしかしたら対人関係が円滑に行えないような人になっていたかもしれない。もともと結構我儘でしたし、親にめちゃくちゃ反抗して、暴走族になっていたかもしれない。暴走族は無いか。
まぁ、もしかしたら今よりもっと変な人になっていたかもしれない、ってのはあります。
やっぱりそう考えると、鬱だった兄の存在は私の人生になくてはならないものだったのだな〜、と思います。

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平成中期の、更なる振り返りでした。
書いてみて、これを読んだ人が楽になるものではないよなとか、むしろ楽になったのは私だけでは?とか、思うところもあるのですが、文章にしてみて、良かったかもしれない。うん。
まぁでも、何かもっとできたこともあるかもしれないな〜、というのはあります。そう思いたいだけかもしれません。ifばかり思いつく。
振り返りの醍醐味かもしれない。


中期だけでこれだけの文になってしまうので、後期はどうなってしまうのか。

平成後期(20〜30歳)。
くすぶっていた自分、結構思いつく。
ゲイとしての色々が詰まったこの期間は、兄のことではなく、自分のことで書ける内容が山ほどある。

ですが、これ以上長くなるとグダグダしてしまいそうなので、一旦終了。

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全5回のこの企画を、一旦終了とさせてください。
第5回 Part.2 として、書いていこうと思います。
ゲイとしての活動をしていく中で、私が感じていた、ちょっぴり重たい話。

〜〜〜

以上です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
最後の最後に雰囲気の違う話を持ってきて、書いている人同じ人?と思われてしまうかもしれませんが、同じ人です。
3, 4, 5回と、締め切りを過ぎまくって更新してしまい、申し訳ありませんでした。
完結!ではないのですが、一区切り。ここで打たせていただきます。


では、次回のPart.2まで、もう少しだけ、お付き合いください。
令和についてもそちらで、つれづれつづります。

では。

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