私が逃げ込んだ先
「人生で耐えられないような辛いことや苦しいことがあって、音楽に逃げ込んでいる奴は、ものすごく上手くなるんだ。お前はもしかしたらそうなんじゃないかと、ずっと思ってた」
長い間、楽器のレッスンをつけてくれていた先生の言葉だ。いつもふざけてばかりの先生だったが、カミングアウトした時に、真顔でぼそっと言われた。
実は、これを言われても、当時は逃げ込んでいる自覚はなく、ピンと来なかったのだ。ただ、自分は劣った存在だと思っていて、それを補うために必死だった。
音楽、というか、楽器に出会ったのは中学生の時だ。吹奏楽部は落ち着いた生徒が多く、クラスと比べてずっと居心地が良かった。今思えば、親が子供に、特に男子生徒に音楽を許容するような家庭環境の影響は大きかったのではないかと思う。偏見かな。偏見かもね。
高校進学後は、生徒が自主的に運営する演奏会やイベントが増え、さらに熱が入った。試験期間中も部室で勉強する部員が多く、自分もその一人だった。これ、音楽に逃げ込んでいたというより、音楽に伴う良好な人間関係に依存していたのかな。
大学では、いま振り返ってみると、逃げ込みが顕著だった。性が具体的な行動化に移行する時期でもあり、自分が「普通」ではないことに直面化させられるとき。この時めちゃくちゃ上達したもん。先生、よく見てたな…。
社会に出てからは、ある程度上手に演奏できることが、声をかけてもらえることに繋がり、知人や友人が増えていった。期待に応えるために練習し、さらに上達した。だが、元々が逃避行動だったためか、いわゆる自己肯定感には繋がりにくく、なんだかいつも苦しかったのを覚えている。
そして、ある日、先生が言っていた通り、自分は音楽が好きなわけではなく、逃避の手段としていることや、役割に応えるために演奏していることに気がついて、音楽をやめた。
先生は「個人的には残念だけど、お前にとっての音楽は役割を終えたんだよ。もう逃げる必要が無くなったんなら、それでいい」とやはり真顔で言った。
そう、この頃には自己受容ができていて、何かに秀でていなくても自分には価値があると思えるようになっていた。
長い間、懐深く、逃げ込ませてくれた音楽には本当に感謝している。
そして、教えてくれた先生、一緒に演奏してくれた人たちにも。
これがなかったら、俺は今は精神的に健康ではいられなかったと思う。
いわゆるストレートの人たちで構成されている楽団でも、俺のような人は少なくないのでは、と感じることがある。
逃げ込んだ音楽が自分の全てだから、誰かが自分より上手だと人が変わり、攻撃的にまでなってしまう人もよく見てきた。自分を殺しているように見えるほど、熱心に練習する人たちも。
これは、音楽に限った話ではないかのもしれない。
時々、音楽を必死にやっていた頃の録画をふと見てみることがある。
自分が精神的に死なないために、なんとか生き延びるために必死にやっている姿を見ると、過去の自分にも感謝せずにはいられない。
よく、頑張りましたね。
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