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三国志後伝の挿絵と人物紹介15

三国志後伝にかかる、挿絵一枚につき、該当する人物の人物紹介にいきます。これは20枚ある口絵の15枚目です。
【注意事項】
 1回目を参照

口絵15

孫秀(そんしゅう)字:彦才(げんさい)または俊忠(しゅんちゅう)

年齢:40歳ぐらい
血縁:孫匡の孫、孫泰の子
所属勢力:呉→晋→趙王政権
智:8
武:4

史実では孫秀は二人いましたが、三国志後伝では同一人物の設定となっています。呉の孫一族で、前将軍に任じられていましたが、晋に降伏し、驃騎将軍に任じられます。呉滅亡時に晋への報復を誓いました。趙王(司馬倫)に仕え、参軍司馬に任じられて、趙王の参謀となります。趙王の敗戦の責任を問われ、処刑されそうになりましたが免れました。趙王の賈皇后(賈南風)討伐を主導し、趙王政権を成立させて、太宰に任じられました。諸王の決起に対しても、軍の派遣や洛陽防衛を主導しますが、内応により殺されました。

龐鷹(ほうよう)字:凌霄(りょうしょう)

年齢:30歳ぐらい
血縁:龐徳の孫、龐会の子、龐鷂の兄
所属勢力:晋
智:4
武:8

邯鄲(かんたん)郡を守る(冀州?)刺史です。牛の角を引き抜く力があり、百歩先の柳の葉を射るほどの弓の名手でした。大刀の使い手です。馬服山に向かい、北漢軍を防ぎます。劉霊と激しい一騎討ちを行い、「連珠貫射(れんじゅかんしゃ)の術」(矢の連撃)で倒そうとしますが、かわされてしまい、劉霊を追うところを負傷させられます。間道より、北漢軍が進み、邯鄲に迫ったために撤退しましたが、囲まれてしまいます。何人もの北漢の将と戦いましたが、張実との一騎打ちで負傷し、最後は関防に討ち取られました。

龐鷂(ほうよう)

年齢:25歳ぐらい
血縁:龐徳の孫、龐会の子、龐鷹の弟
所属勢力:晋
智:3
武:7

邯鄲の左軍です。武勇は兄に次ぎ、千斤(約596kg)の石を挙げ、百斤(約59kg)の矛を使うとされますが、実際の戦闘では鎗を使っています。兄の龐鷹とともに、邯鄲の二虎と呼ばれていました。張翮(ちょうかく)の制止を聞かずに、危難に陥った龐鷹の救援のために邯鄲から出て北漢軍と戦います。龐鷹とは合流できましたが、北漢軍の包囲を突破できず、龐鷹は戦死します。王如を負傷させ、邯鄲に帰還しようとしましたが、関謹と戦い、劉霊にも追いつかれ、逃げるところを関謹に討ち取られます。

司馬倫(しばりん)字:子彝(しい)

年齢:45歳ぐらい
血縁:司馬懿の第九子、司馬昭の弟
所属勢力:晋→趙王政権
智:3
武:3

晋の八王の一人です。趙王に封じられ、渤海を守っていました。劉淵の関中侵攻戦に対し、征西大元帥に任じられ、十万の軍を率いて討伐に赴きます。孫秀の計略で、馬邑・扶風で勝利し、郝元度(かくげんど)・馬蘭・盧水を討ち取りますが、劉淵の軍に涇陽で大敗します。太子の司馬遹(しばいつ)が殺されたことを利用して、賈皇后(賈南風)討伐を行い、趙王政権を建てました。さらに、淮南王(司馬允)を殺し、斉王(司馬冏)を許昌に追いやり、恵帝(司馬衷)を廃位して摂政の地位に就きました。諸王が決起したため、抗戦しましたが敗北し、捕らえられた上で、自殺させられました。史実では、皇帝に即位しています。

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