見出し画像

三国志後伝の挿絵と人物紹介13

三国志後伝にかかる、挿絵一枚につき、該当する人物の人物紹介にいきます。これは20枚ある口絵の13枚目です。
【注意事項】
 1回目を参照

口絵13

張実(ちょうじつ)字:仲孫(ちゅうそん)

年齢:30歳ぐらい
血縁:張飛の孫、張苞の子、張賓の弟・張敬の弟
所属勢力:蜀漢→北漢→石趙
智:4
武:8

力強く、勇気がありました。槍の使い手です。人相が凶悪で商人や民に見えず、張賓たちとの逃亡生活では一行が疑われる原因となったことがあります。劉淵の配下として戦い、関中侵攻戦では孟観に将帥の才があると評されています。劉淵即位時には、平難龍譲(へいなんりゅうじょう)将軍となり、陳元達を迎え入れる使者となったこともありました。後々、張賓とともに石勒の配下となります。槍を四か所、矢を二か所身に受けながら戦い続けたこともありました。石勒の即位時に、開誠輔(かいせいほ)趙忠烈王を贈り名されています。

張敬(ちょうけい)字:季孫(きそん)

年齢:25歳ぐらい
血縁:張飛の孫、張苞の子、張賓・張実の弟
所属勢力:蜀漢→北漢→石趙
智:3
武:8

普段から戦闘を好んでいました。蛇矛の使い手です。敵中に入り込み過ぎ、汲桑に救われる時もありました。張賓に従い、劉淵の配下となり、関中侵攻戦から前線で活躍し、孟観の左ひじを射抜いて、晋軍に恐れられています。劉淵の即位時には、驍騎大将軍に任じられました。晋漢大会戦や山西・河北侵攻戦でも前線に出ています。洛陽侵攻戦では石勒の配下となります。戦場で活躍を続け、北漢の滅亡後は石勒に仕えました。石勒の即位時には、石趙の魏国公・車騎大将軍に任じられます。


張賓(ちょうひん)字:孟孫(もうそん)、幼名:柱奴(ちゅうど)

年齢:30歳ぐらい
血縁:張飛の孫、張苞の子、母は張苞の妾である李氏
所属勢力:蜀漢→北漢→石趙
智:10
武: 3

出生の時、張賓の母・李氏は呂洞賓(りょどうひん)という仙人に玉柱を与えられる夢を見ました。生来、聡明で兵法・経書・史書を読んですぐにそらんじるほどでした。姜維より、諸葛亮の遺書を伝えられますが、大器晩成であると言われ、このことを秘密にしていました。姜維の死後に、成都を逃亡して、北へ逃れます。劉淵に仕えて軍師謀主に任じられ、北漢の晋討伐軍の軍師として戦略や戦術を主導し続け、大活躍しています。途中から石勒に仕えて石勒の自立を図りました。石勒に「右侯」と呼ばれ、内外百揆総軍師という石趙全体を取り仕切る存在となります。剣を使って戦うこともありました。

趙概(ちょうがい)字:文勝(ぶんしょう)または、総翰(そうかん)

年齢:20歳ぐらい
血縁:趙雲の孫、趙統の子、趙染の弟、趙藩・石勒の兄
所属勢力:蜀漢→北漢→石趙
智:4
武:7

武芸に優れ、義気、山のごとしと言われていました。張賓に従って、劉淵の元に加わります。関中侵攻戦から活躍し、劉淵の即位時には建威將軍に任命されました。山西・河北侵攻戦では兵糧の守備を任されます。兄の趙染と一緒に戦うことが多々ありました。晋漢大会戦では敵将を捕らえています。洛陽侵攻戦以降は弟の石勒の元で働き、趙染とともに常山飛虎将軍を名乗りました。石勒の即位時に、左相国(さしょうこく)養老太師に任じられました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?