【小説】ディア サーチエンジン 3 そうだ、婚活サイトだ

 その夜、麻布から帰宅した彬子に、「亘、たあちゃんになんて言ったの」と夏実が聞くと、彬子は、「ああ、そのまんまよ。夏実ちゃんと結婚させてくれって」と、笑って答えた。「そしたらね、たあちゃんたら、いっぱしの父親みたいに、その前にご両親の了解を得ることが条件だ、そのうえで、夏実もその気なら、許してもいい、ですって」「たあちゃんたら、そんなこと言ったの、信じられない」夏実は笑い転げた。貴彦は、白衣を着て薬局で客と話している自信たっぷりな紀美子の父親とは全く違った。昔のロックスターみたいに長い白髪をポニーテールにしているし、いつもはデニムとTシャツしか着ない。そして夏実とけんかしたりふざけあったりしている。父親というより年の近い兄弟みたいだった。小学生の頃夏実の授業参観に来ると、クラスの子から「大石さんのお父さんて髪が長くておばさんみたい」とからかわれた。「もう授業参観には来ないで」と言うと悲しそうな顔をしたが、結局来るのをやめなかった。

 風呂に入り、花柄のパジャマに着替えてきた彬子は、「ああ、さっぱりした」と言って、ダイニングテーブルで遅い晩御飯を食べている夏実の前に座った。「いくら紀美子ちゃんと友達だからといっても、十歳も歳上のあなたとの結婚を、あちらのご両親が許すはずがないわ。だから、安心していいわよ。まったくもう、亘ちゃんたら、あなたと結婚したいなんて、どうして言い出したのかしらね」彬子は、ポットのお湯を急須に注ぎ、自分の茶碗にいれて、口に含み、「あら、これ、出がらしだわ」と言った。

 立ち上がって台所のシンクで急須を洗っている彬子の後ろ姿を見ながら、最近彬子は以前よりきれいになった、と夏実は思った。すでに七十を過ぎているから、若い女がきれいになるのとは違うが、肌に少し張りが出て、表情が豊かになったような気がするのだ。着る服にも気をつけるようになった。今日着ていたスーツも、夏実と一緒にデパートに喪服を買いに行ったとき、「あら、これいいわね」と服売り場で通りすがりに見かけたものだった。値段もそれなりだったが、「今度麻布に着ていくわ」とその場で買ったのだ。夏実がそれまで知っている彬子は、絶対衝動買いなんかしなかったので、かなりびっくりした。「たあちゃんなんか、お母さんの服の違いに気づかないわよ」と意地悪く言ってみたが、彬子は「そうでもないわよ」と答えたのだ。

 そうだ、彬子はいずれ、この家を出ていく、そしたら、自分はここで一人になる。夏実は急に心細くなって、「お母さんが麻布に行ったら、さみしいわ。私、ここで一人暮らしできるかしら」と、甘えた声を出してみた。
 「大丈夫よ。私が上京した時はあなたより若かったし、住むところも木造モルタルの安普請のアパートだったわ。ここは鉄筋だし、台風が来て大雨が降っても安心よ」

 「そうじゃなくてさ、私、今まで一人で暮らしたことないから」と、夏実は子供っぽく体をゆらゆら前後に揺らした。

 「あなた、家賃も払わなくていいし、ただでここに住めるのよ。今やっている、ウエブライターっていうの、それで稼げば十分生活していけるわよ」彬子はどこまでも現実的だ。

 「一人暮らしが嫌だったら、亘ちゃんと結婚する?」と彬子は夏実の目を覗き込んだ。そして、自分で言ったことに笑った。

 「冗談やめてよ。私はあの子が生まれたときから知っているのよ。紀美子と一緒におしめ替えたり、おばさんに頼まれてお風呂に入れたこともあるわ。そんなのと結婚できないわよ。それに、私の恋愛はどうなるのよ。私だってこれから誰かを好きになるかもしれないし」

 「そうねえ、私がたあちゃんと知りあった時、三十七、八だったから、可能性はないとは言えないけれど、でも」と母親はひたと夏実を見た。「あなたみたいに一人暮らしが心細いと言っていると、ろくでもない男を好きになるかもね。それなら、亘ちゃんのほうがましよ。それに、恋愛と結婚は別物よ。結婚は生活、その人と家族になれるかどうかよ」

 そう言い切ると彬子は、「ああ、今日は疲れた。もう寝るわ。たあちゃんの仕事関係の人にたくさんあって挨拶して、にこにこ笑って、笑顔が凍り付きそうだったわ。あなたも早く寝なさい」と自分の部屋に行ってしまった。

 夏実は、のろのろとレトルトのカレーにありあわせの野菜を入れたのをスプーンで口に運んだ。そして、学生時代に付き合ったろくでもない男たちを思い出し、ぞっとした。「亘と結婚なんて、とんでもない。かといってどうしようもない男にひっかかっては大変だ、どうしよう」

 紀美子は夏実の人生の方向をいつも決めてくれた。大学を卒業して初めて務めた会社を辞め、再就職先が見つからずパニックになった時も、ウエブライターの仕事をサーチエンジンサイトから見つけてくれた。「紀美子、あんた、すごいわ。凄腕サーチエンジンだわ」と夏実が言うと、紀美子はごほごほ咳をしながら、「少し冷静になれば夏実だって探せたわよ。ま、頑張って試験に受かって、うんと稼いで」と電話口で言った。それから一週間後、紀美子は死んだ。コロナウイルスに感染したのだ。電話してきた紀美子の母親によると、糖尿病の持病持ちに感染は致命的だった、と医者が言ったそうだ。紀美子は子供の時から糖尿病にかかっていて、毎日のインシュリンは欠かせなかった。夏実は注射器に入った透明なインシュリンの液体が、紀美子を特別賢くする魔法の薬に思えたのだが。

 何とかしなきゃ、と夏美はあせった。ここで一人ぼっちになる前に信頼できる「夫」か「恋人」、じゃなかったら「ボーイフレンド」を探さなきゃ、と思うが、頭の隅に、おむつを着けただけでだけで裸のまんま走り回っている幼い亘がちらちら見えた。

 大学時代の友人とはほとんど疎遠になっているから、紹介してもらうこともできない。「そうだ、婚活サイトだ」無料でもらったアカウントがあったのを思い出した。夏実は、以前婚活サイトの記事を書いたことがある。その時体験のために、本来は月額数百円の有料のアカウントを無料で、記事を依頼してきた婚活サイトからもらった。記事の中で、散々、無料サイトの中には個人情報を引き出したり、架空の請求をする悪質なものもある、と書いたこともあり、得体のしれないサイトを使うのは怖かったので、それを使うことにした。

 自分の部屋にあったノートPCを居間に持ち出し、コーヒーを飲みながらおざなりに入力しただけだったプロフィールに手を入れて、写真も少し加工して明るい顔に見えるようにした。保存すると、一仕事した後のように疲れた。明日になったらきっとたくさん問い合わせがあるはずだ、という気がしてきた。


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