知られざる名作の引用 1
ウラジミール・カシン『孤島』1
「だめだ、ピョートル! もどって来い!」
北西の強風にあおられて、ユーリの声もちぎれとばされていた。
子犬のピョートルは観測所からひさしぶりに戸外にだされたのがうれしくて、狭い庭のはずれまでいっきに走り出していく。庭のむこうは、切り立った断崖だった。島の東側は岩の突き出た磯にまっさかさまに落ちていく絶壁になっていた。背の低い柵をめぐらしてあるが、突風でも吹けば小さな犬など断崖から吹き落されてしまいそうだった。
「ニェット、ピョートル!」
ユーリもかけだしていくが、子犬はもう低い柵にまでいきついて、こちらをむくと、さかんに尻尾をふりたてていた。遊んでもらいたいのだ。ユーリははらはらしながら、ジリジリと子犬のほうに近づいて行った。こういうときは、むしろこちらがすわりこんで、子犬の関心をひいたほうがいいことはわかっていた。ポケットにパンのきれはしがある。
10メートルばかりてまえで、ユーリは膝をついて、ゆっくりと上着のポケットから黒パンの塊をとりだした。石ころのようにカチカチになっている。
「ほうら、ピョートル」
と、しずかに声をかけながら、黒パンのかたまりをペロリとなめるまねをした。鼻のいい犬には、それがなんだかわかっているはずだ。子犬はたちまちこちらにむかってかけよってきた。朝はうすい魚のスープだけだったから、ユーリもピョートルも腹ぺこだった。
夕方にはライ麦をまぜた粉を練ってストーブのうえでパンを焼くつもりだったが、いまのところ口にできるのはその黒パンだけだった。
ユーリは黒パンをほぐして、小さな破片を足もとに落とした。ピョートルはそれをのぞきこんでから、いちど主人の顔をみあげた。ユーリはほほえんだ。
「いいよ、ピョートル。ぜんぶ食っちまっていいよ」
まだ手のひらに残っているぶんも、子犬にくれてやるつもりだった。
「いまはこれで我慢するんだよ。夕方には魚を焼いてやれるかもしれない。この風がすこしおさまれば、西の磯へサオをおろせるからね。風がやまなければ、パンとオイルサーディンの缶詰だ」
ユーリの言葉がわかるのかどうだか、子犬はそれほどガツガツとは食べなかった。それでも、ユーリの手に残っている最後のカケラをじっとみている。
「ほら」
と、ユーリがさしだすと、手のひらからパンの切れ端をうけとって、こきざみに咀嚼した。飲み込んでしまったあとで、なごりおしそうにユーリの手のひらをペロペロなめている。この島にきてから、食糧事情は悪くなったはずだ。ミルクはほとんど口にできない。家畜の飼料のような粉ミルクの缶詰があるにはあるが、あれを使うのはもっと厳しい天気がつづいたときだ。気象観測員のユーリには、今日のように風が強くても日が照っているだけましだとわかっていた。
「さあ、そこにすわっていろ。これから釣り針の手入れをしちまうからな。こいつが晩飯を恵んでくれるかはうけあえないけどね」
胸ポケットにいれていた釣り針を二本手のひらにのせ、戸口にたてかけた釣りざおをとりにいく。釣りざおだけはウラジオから上等な物をとりよせて備えていた。魚は唯一のタンパク源というべきだから、島ではこれ以上に貴重な道具はあるまい。気圧計や風速計は故障しても修理がきくが、磯で波に釣りざおをもっていかれたらとりかえしがつかない。ユーリは釣りざおのグリップと自分の手首を革ベルトでしばる仕掛けを自分で工夫しているくらいだ。しかし、サオをかばうあまり、おのれが海にもっていかれるという危険もないわけではないのだ。大型の鰊(にしん)を二尾一度につりあげたときに、あやうく岩場から落ちそうになったことがある。命がけで釣り上げた鰊は格別に旨かったが、海にひきずりこまれそうな感覚はずっと残っていた。
ほうら、すこし風がおさまってきたぞ」
ユーリは顔を西にむけて微笑んだ。低気圧がとおりすぎて、しばらくは天候が回復する兆しがみえていた。今朝がた測定した気圧計も、数値があがっていた。これから三日間くらいは、海もすこし穏やかになり、磯近くに魚も集まってくるはずだ。いまふきつけている西北の風は、低気圧の最後のあがきか、置き土産というところだった。
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