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廃墟にたちあがる人形たち


                            天沼 春樹

■ピグマリオンの末裔

 人形とわたしたちの意識とのあいだに存在するひとつの関係、「抱く」ことと「抱かれる」こととは、人類史上の受動と能動の行為のあいだ往還の物語であったといえる。一個の人間としては、母親に抱かれる幼年期、愛または欲望のの対象物を抱き/ 抱かれる青年期、子をだく中年期、そして「病い」という死の先触れに抱かれる老年期といった様々な抱擁の位相、主体と客体の位相を経験する。しかし、この近代の大きな物語であった主体・客体の関係はいまや終わろうとしている。中身のないない空洞化した主体の膨張と、増殖する客体のなかで、すでに抱き=抱かれるという意識の境界が極めて曖昧なものになってはいないか。これは、「人形愛」を特集した雑誌「is」の冒頭部エディターズ・コラムの引用にほかならないが、「人形とは人間の欲望の所産であると同時に、なにやら得体の知れない畏怖をあたえる存在に変貌するのが常としていた」(is.No.56,1994.6.4 )という論法をかりれば、人形とはその当初の役割や機能を果たしおえた瞬間から、いや、むしろそういった人間の欲望と
いう属性をから切り離された瞬間から、ふたたび雄弁に彼らの物語を語りはじめるのではないだろうか。もっと正直なレトリックを用いるならば、人形が放射してくるオーラを、見者としてのわれわれが、また、べつの位相でとらようとしているということになる。いささか、醒めた物言いをすれば、すべてはわたしたちの観念の遊戯のなかではじまる物語であるわけだし、その観念の遊戯こそが様々な現象に意味を与え、あるいは意味があると思い込みたがるわたしたちの特性でもあるわけだ。それを、あらかじめ意識して語りはじめることにしたい。
 自らが形作った象牙のアフロディテの像に恋をしたキュプロス島の王にして、彫刻家のピュグマリオンに由来するこの人形フェティシズムは、生命のない無機的な像が、リビドーによってついに生命を獲得するにいたる。イメージから現実への飛躍を果たす欲望の物語。なぜか、十八世紀のフランスにおいて。この「ピュグマリオン」の物語が一世を風靡したという事実がある。つまりは「人形愛のエロティシズム」の誕生である。渋澤龍彦は「人形愛の形而上学」なるエッセーで、ギリシア人に愛された人形が夜な夜な台座を抜け出して、人形や神像と情交する話や、本邦『今昔物語』巻十七「吉祥天女ノ攝ヲ犯シ奉レル人ノ話や、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』(一八八六年)、ホフマンの『砂男』(一八一七年)、メリメの『イールのヴィーナス』(一八三七年)といった物語に触れ、さらには、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(一九五九年)のダンツィヒ海洋博物館の木彫りの船首像のニオベと情交して果てる青年の話のコレクションを披露しているが、「女の主体性を女の存在そのもののなかに閉じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、一個の物体に近づかしめるほど、ますます男のリビドーが青く燃えあがる」という逆ピグマリオニズムへ踏み込んでいる。
しかし、私が関心があるのは、冒頭でも述べたように、そのリビドーの対象たる機能すら終えたあとで打ち捨てられた人形たちの存在感についてである。いわく、廃墟は語りはじめる。廃墟にたちあがる人形たちからはじまる物語を、そしてその廃墟の人形たちをたくみに動かして、表現行為に昇華させた映像作品についてである。
 チェコの美術家にしてアニメーション作家であるイジイ・バルダの短編映画『見捨てられたクラブ』の話をしよう。
プラハと思われる、くすんだ東欧の都市の一角に、いまは物置としてしか使われていない廃屋がある。その階上の一室は、廃棄されたマネキン人形たちの置場になっている。鼻が欠け、腕が失われ、塗装がはがれた男女のマネキンたちが、停止した時間を象徴するように立ち尽くしている。窓の外には、煤けた都市の路面を、これまた薄汚れたトラムが、ガタガタきしみながら行き来している。その振動が、棚に置かれた小さな目覚まし時計を床に落とす。けたたましくベルを鳴らしはじめる時計。それが、きっかけである。横たわっていた一体の若い男性のマネキンが、体をきしませながら起き上がる。目覚ましに起こされて、会社に出勤していく勤め人の日常を模倣した彼のパントマイムが開始されるのだ。壊れたラジオをくりかえし拳でたたきつづける老人のマネキン、その騒音のたびにまるでエクスタシーを感じるかのように頸のおれた婦人のマネキンがのけぞる。いっぽうでは、埃だらけのバスタブで入浴のまねごとにふけるマネキンや、編み物をする老女と、遊戯する女の子、のぞき穴からピーピングに耽る中年紳士。どれもが、人間の生活を営々と模倣しつづける。やがて、件の勤め人のマネキンが帰還し、労働を終えたごとく床に横たわって、この見捨てられたクラブの時間は一端停止する。ほどなく、外部からの振動でまたもや目覚まし時計が鳴りはじめるや、再び寸分たがわぬマネキンたちの単調な日常生活が開始される。おそらくは停滞した東欧社会主義国家の市民生活を象徴しているのであろう廃墟の人形たちの生活に、突然の変化が訪れる。人間たちによって、あらたにニューモードのマネキンたちが物置部屋に運び込まれてくる。派手なメイクに、パンクヘア、明らかに西側自由主義世界カラーのポップな人形たちである。
 旧弊な見捨てられたクラブのなかに、新しいマネキンたちは現代の風俗をいやおうなしに持ちこんでくる。最初は、拒絶の姿勢をみせていた旧式のマネキンたちも、ほどなくポップなカラーに染まり、マネキンたちの生活は、ドラッグ・パーティの乱痴気騒ぎと化していく。
 図式的に映像作品を解釈しても、はなはだ面白からぬ所為となるであろうから、これくらいにしたいが、私をとらえてはなさないのは、廃墟に蠢く廃棄された人形たちの存在感である。本来の役割からはずされ、遺棄されたともいうべき人形たちが、薄闇のなかで突如はなちはじめるエロティシズム。それは、あきらかにフェティッシュな、肉体性を感じさせない硬質な光を帯びたエロティシズムであるが、かつて渋澤龍彦が、ハンス・ベルメールの解体された人形に見た、子どもの遊戯に似た快活なそれとは異なり、容赦ない時間にさらされ果てた、重層的に過去を背負った老いたるエロティシズムである。たとえば、老女の一瞬の媚態。老人がみせる頑ぜない少年のような所作。それをそもエロティシズムとよぶのにも異論があるかと思われるが、人形愛がもともと模倣されたるものへのリビドーの発露であってみれば、老人趣味のマニアがいてもおかしくないだろう。
 さよう、重層的時間を背負って廃棄された人形たちは、過去の幻影をひきづりながら、雄弁に現代を語りはじめるのではなかろうか。おもえば、ジュモーやシュミットなどというアンテイック・ドールの名品たちも、かつては裕福な婦女子の愛玩物として「抱かれ」あるいは「飾られ」ていた人形たちではなかったか。はじめからコレクター・アイテムであったわけではなく、持ち主の手をはなれ、時間を経過してはじめて、第二のフェテシズムの対象となるわけである。持ち主はとうの昔に死んでいて、愛玩された人形だけが、幾人もの人の手を渡り歩き、ときには愛玩というよりも、「投機」という精神の廃墟のまっただなかで競りにかけられるとしたら、彼らもまたわが廃墟人形のコレクションのなかにたつ資格を持っているだろう。
 もうひとつ、イギリスの人形アニメーション作家であるクエイ兄弟の場合は、精緻に作られた廃墟のような都市で、人形たちが頽廃的所作にふけりつづける。彼らの代表的映像『ストリート・オブ・クロコダイル』に登場する人形たちは、ビスクドールの頭部を持ち、冷酷に瞳を輝かせる仕立屋たちである。彼らの頭部が空洞なのは偶然ではない。人形たちには、器官としての脳など、もはや無用の長物、思考する器官なき存在としてのみ、廃墟に動き回る特権をゆるされるだろうからである。彼らの出自はついぞ明かされないが、ついに完成されなかったビスクドールのパーツの廃品といったあたりが正当なところだろう。ビスクドール、あるいはオークションで高値をつけられるアンティックドールになりそこねた人形たちの頭部こそが、虚栄の果ての廃墟の都市の最後の登場人物にふさわしいのかもしれない。いわく異端者たちのアナーキーな天地がそこにある。ポーランドの作家ブルーノ・シュルツ(一八九二-一九四
二)、ナチ占領下のドロホバチ市のゲットーでゲシュタポ将校に射殺されたこの異端の作家にささげられたオマージュというべきこの映像に、ピーター・グリーナウェイがいったように、「きちんとまとまったストーリーなど求めると結局はろくでもない物を求めることになる」。クエイ兄弟は、イメージの喚起、メタファーの体系を築き上げることにのみ熱中しているかにみえるのであるから。
 生身の人間ではなく、肉体性からとおざかったオブジェとしての人形をとおして強烈なイメージを喚起するアニメーション映像として、冒頭で引用した渋澤龍彦に敬意を表して、マルキ・ド・サドの境涯と思想を、動物の着ぐるみコスチュームと、人形アニメーションとの合成で描いた『マルキ』なるグロテスクな一篇をあげてみてもいい。バスティーユ牢獄に、異常者、自由主義思想家として幽閉されているサド侯爵は、小柄な犬として配役され、おのれの分身ともいうべきペニスのコランと獄中で対話をつづけている。曰く、性欲と性器とは別の物であるとか、否、精神すらも性器によってあやつられているのだとか、性の形而上学に退屈な日々をまぎらわせている。周囲には、マゾヒストの刑務所長(雄鶏)、男色家の看守長(鼠)、野心家の監獄付司祭(山羊)、国王に強姦され身ごもったあわれな女(雌牛)など、性欲の匂いをプンプンさせたキャラクターがグロテスクに動き回っている。これら人形のフィギュアを通じてデフォルメされた情念が、フランス革命前夜の腐敗したバスティーユ周辺で輪舞している。だれもがエロスの軛につながれ、猥褻・猥雑な日常を送っているわけである。いかにもフランスらしい下品なウィット(決して揶揄しているのではないが)に溢れた映像作品である。しかし、その圧倒的な存在感に、むきだしの言葉で表現されるリビドーさえも、「創造主にとって肉の塊など意味はない」というマルキ自身の台詞に凝縮され昇華されていく。

■廃墟はどこにあるのか

 役割を終えて遺棄された人形たちに話をもどそう。
ブルーノ・ショルツ描く『大鰐通り』のあるドロボバチ市にかぎらない。廃墟の名にふさわしい場所は、現代のいたるところに入口を開いている。たとえば、筆者が日頃、生業としてうろつきまわっている国立大学の、廃墟とよんでさしつかえないキャンパスのなかにも、ふとみれば打ち捨てられた人形が、ひっそりとメタファーをたたえて佇んでいる。
 どこから、はこばれてきたのであろうか。電気店の店頭によくたっているビクターの犬のデイスプレイ人形。こころもち首をかしげて、蓄音機に耳を傾けている図は、人形看板のひとつの典型であるし、とくにこの人形はノスタルジーを誘う。
 ただし、写真にあるビクター人形には首がない。その頭部が実ははめこみしきのプラスチック人形であったことがわかるのであるが、頭部が取り去られたまま、じっとすわりこんでいる様子と、すでにながいことそこに遺棄されていたことを物語る蔓草が胴体部へとはい上がり、空洞の中身にまでも入り込んでいるさまは、たんに廃品であるという以上の存在感を持ち、なにごとかを語りかけてはこないだろうか。
 むろん、この廃棄人形からわれわれがなにごとかをイメージしているにすぎないのだけれど、頭を失い、空洞の中身を露呈し、しかもなお従順におすわりをつつげている犬の人形が、なんのメタファーであるかはこの際言わずにおくにしても。
 おなじビクター人形にしても、場末のはやらない電気屋の店先に、風雨にさらされ、なおかつ落書きやペイントの汚れをまとって佇んでいるのに出会ったことがある。
「彼」がそこで語りかけてくるものは、淡々とした時間の経過であり、小市民の日々の生活のつみかさせに随伴した「物」につみかさなった物語である。高度成長時代に、飛ぶように売れた家電製品、テレビジョン。大型量販店の拡大によって、町の電気屋からの客離れ、主人の転職、いつ売れるとも知れない一世代前の家電品。はなはだ失礼な物言いかもしれないが、消費社会の廃墟ともいうべき小売商店の店頭にふさわしい姿としてい存在しているようにも思えるのである。
「廃墟」と、さかんに言いつづけている。都市の廃墟、建造物としての廃墟ばかりがそれではない。精神の廃墟、とりもなおさず、わたしたち人間の心のなかに広がりはじめている廃墟は、物質化として顕現しずらいゆえに、それだけなお荒廃は広がり、音もなく崩れ落ちる心の壁は眼をおおうばかりである。

                 初出『人形考』(パロル舎刊)所載絶版


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