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人形つかいの夜

  人形つかいの夜

 それは、私がまだ4,5歳の幼児であった頃のことだ。昭和30年代の初めである。私は父のひざの上に乗って夜の広場をみおろしていた。東京近郊の小都市の駅前広場に、ぎっしりと身動きならぬくらい人が集まっていた。街頭テレビという言葉がまだ生きていた時代のことである。
 大人も子どもも、広場の中央にしつらえられた舞台にすいよせられるように立っていた。その光景が、今でも円形劇場にひしめく聴衆のように思えるのは、父が駅の階段かどこかの高い場所に陣どっていたからだろう。
 舞台には黒いモーニングすがたの男と、ひとりの男の子が、これも彼のひざの上に乗って、さかんに男とやりとりしていた。
 それが人間の男の子ではないということは、幼い私にもわかっていた。てかてか光る顔のなかの大きな眼が、かん高い声を発するたびに、ひっくりかえって、真っ白になり、パクパク動く口だって、くっきりと二本の筋がついている。うっかりすると、頭がクルリとひとまわりすることもあり、そのたびに見物の人びとはどっと笑った。
「なあ、坊や。今夜はどこに来てるかわかるかい?」
「畑だね」
「え、どうしてだい?」
「だって、おじさん。カボチャがたくさんならんでるよ」
 そんな観衆を愚弄するような台詞でも、その人形の口から出ると、みんな笑いころげていた。しかし、幼い私は、その腹話術人形が、おもしろいというよりは、ひどく気味が悪かった。そして、その晩の公演がはねて、観衆が散り始め、みょうに白い顔をした腹話術師が、さっきまで「でこ坊」と呼んで仲良くやっていた人形を、大型のトランクのなかにひょいとしまいこんで帰っていくのを見て、とても恐ろしいものを見たような気になったものだ。
 人形芝居といって思いだすのは、ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』だ。ところは、パリ。劇場をおはらいばこになったやせっぽちの少女ムーシュは、セーヌ川に見を投げようとヌイイ橋のほとりに歩いてくる。橋のたもとに小屋をかけている人形芝居の舞台から、彼女を呼びとめるかぼそい声がした。一体の人形が、さかんにムーシュをなぐさめ、この世の側にひきとめようとする。ムーシュはたちまち幻の世界のとりこになってしまうのだった。いや、彼女はとっくに冷たい現実の世界にあいそをつかしいたのだから無理もないことだった。
 七つの人形たちに誘われるまま、ムーシュはこの人形一座に加わり、人形と彼女のかけあいが評判になり、一座の人気は高まっていく。
 しかし、夜が来て、人形たちが舞台から消えると、そこにいるのは冷酷な座長、キャプテン・コックことミシェル・ぺエロなのだった。彼は人を愛したことも、愛されたこともなく、ムーシュからすべてを奪い、かわりに苦しみと冷たいまなざし以外は決して与えなかった。
 ところが、ミシェルが舞台の背後にかくれ、七つの人形たちが現れると、人形たちはそれぞれの個性で、ムーシュをなぐさめたり、はげましたりしはじめるのだ。
「にんじん」とよばれる男の子は、うちのめされているムーシュを、さかんにはげまし、「デュクロ博士」なるペンギンの学者は、知恵と皮肉をたっぷりさづけ、キツネの「レイナルド氏」は、たくみにからかったり、甘えたり。大男の「アリファンファロン」は、可憐なムーシュの絶対的保護者になろうとする。
 ある夜のこと、ムーシュは誰もいないはずの人形芝居小屋で、人声がするのを立ち聞きしてしまう・・・。舞台にいる人形たちは、座長を嫌ったムーシュが、彼ら人形たちを捨てて出ていくことを悲しみ、恐れ、おびえていすらいるのだった。それは、誰も見ることのない芝居で、人形たちを動かしているのはほかならぬ座長のミシェルその人のはずだった。
 冷血漢のはずのミシェルは、自分の心の奥にかくれている率直な感情を、人形たちによって逆に引き出されているのだった。「あやつりつつ、あやつられていく」人間と人形たちのとの関係は、まさしく一人の男の心の葛藤そのものだったのだ。
 また、コルロディの『ピノッキオ』にしても、人形のピノッキオが真の人間になるために数々の試練をくぐると同時に、ジェペットじいさんも、ほんとうの息子を探し求めて旅に出る物語である。母の胎内にも似た、巨大な魚の腹のなかで、父親は遍歴のむすこと再会する。そして、ふたりして最後の試練、外の世界への脱出を果たしてはじめて、ふたりはようやく人の子と親になれるのである。
 そういえば、幼い私が見た腹話術の人形「でこ坊」は、終始「おじさん、おじさん」と呼びかけ、「お父さん!」とは、決していわなかった。
 日本の人形芝居の歴史は、奈良時代にまでさかのぼれ、中国から伝来した「傀儡まわし」が起源だという説がある。けれども、芝居でなく、人と人形の歴史は有史以前の素朴な信仰のなかですでに偶像としてはじまっている。すなわち、人でない「神」の似姿として。
 それにしても、生命なきものであるはずの人形(ひとがた)に魂が宿り、生身の人よりも人を動かし、人の心をひきつけることがあるのは、いったいどういうわけか。生身ではかなわぬ思いを仮託する魂のよりしろとして「ひとがた」が機能しはじめるというのだろうか。それもこれも、観念の肥大した人間ならではの営みなのか。
 NHKの夕方の人形劇シリーズ、『チロリン村とクルミの木』からはじまって、『宇宙船シリカ』『ひょっこりひょうたん島』、辻村ジュサブローの怪しい人形たちがうごめく『新・八犬伝』など、少年時代のある部分を決めてしまうくらいの強い印象を残している。あの「ひょうたん島」でサンデー先生に連れられた子どもたちが、みな孤児であったことを、毎日かかさず見ていた自分は、うかつなことにすこしも気がつかなかった。人形たちのつくりだす世界は、一種のユートピアではあるけれど、その舞台に明るい光があたっていればいるほど、その影はより黒々と私たちのほうへ落ちてくる。
 幼い日の私が、大道芸人である腹話術師とその人形に感じた薄気味悪さは、ひょっとして、彼らが漂わせていた悲哀をかぎとってしまったからかもしれない。いや、そうでなくとも、興行が果て、明かりも消えた街頭は、ものがなしく暗かった。
             初出『メルヒェン標本箱』第2章(NTT出版)1993年(絶版)


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