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燻製ニシン 6

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 ハイデルベルクの学生だった頃の記憶をたどる。
チャンドラシェーカル・ヴェンカタ・ラーマン・ジュニア教授は、講義の受講者がぼく一人きりになってからは、しばしば講義を途中でやめて散歩にさそったものだ。歩いていても教えたり、考えたりするのは同じだから、教室にすわっている必要はない、とそういって。
もちろん、若いぼくとしては大歓迎だ。ラーマン教授の講義は数理哲学だから、黒板にたくさんの数式を書いたりノートしたりすることもない。
天気が良い日は、大学の構内をぬけだして、ハイデルベルクの城山に登る道を選んだものだ。いまから考えると、ノスタルジックで、牧歌的な時間だった。インド人はこうしたものなのかと別に変にも思わなかった。まるで別の世界のことだったような気がする。城につづく山道はプラスチックとべトンとメタルに囲まれた今の世界とはまったくちがう。そうだ、いってみれば、不確定要素の集まりみたいな環境だった。岩陰からトカゲが走りでる。小さなブヨがうるさく耳もとをとびかって、思わずふりはらったりもする。そんなことをいうと、あのボタニカル・ゾーンのエピソードを思い出して笑ってしまうのだが。
「すべては不確定なことだと思うかね」
 と、教授はときどき妙な視点から質問してきたものだ。
「世界のはじまりから、つまり時間がながれだしてこのかた生じているすべての現象についての話だよ」
「すべて偶然の連鎖ということですか? 現象の主体に意思ががあれば偶然ともいえません」
「知性ということかな。どのレベルから知性と名づけるのかね。たとえば、今は走りこんだトカゲに知性はあると思うかい」
「生存本能と捕食の衝動を知性とはいいません」
「われわれはね」
「人類ということですか?」
「そうだね。すべては人間の尺度で判断しているにすぎない。数式もなにも、すべてわれわれのルールで現象を測っているのだ」
「数学者としては大胆な物言いですね」
 教授はふくみ笑いをすると、ターバンの乗っかった頭をほんのすこしかしげてみせた。教授がなにを考えているかということより、あの青いターバンの下の髪はどうなっているのか気になっていた。シーク教徒は、生涯刃物を身に近づけない。だから髪も切らないはずだ。
「無機物から生命体が誕生してくることはどんなふうに数式化できると思うかね」
「それができれば人工の生命体も産みだせますね」
「有機物の溶け込んだシロップにエネルギー放電をするかね。太古の地球で起こったと仮定されているような」
「そのプロセスに意味がありますか。新しい生物を造りだすことに。コピーとしてのクローン技術とは根本的にちがいますよね」
 教授は神の話をしたいのだろうか。シーク教徒の神はいったいどんな神なことやら。
「わたしの言いたいことは、不確定要素という言葉で予想できない現象をすませてしまうことへの不誠実さだよ」
 教授はぼくがこれから取り組もうとしている非線形理論へのある種のアドバイスをしたいのだろうか。
 一部の現象が複雑な振る舞いをするのは、その振る舞いを表す方程式の非線形性が原因である。そんな教科書的な定義を思い浮かべた。
「たしかに世界は、非線形のカオスだと思うが」と、教授はすこし話を整理しようとし始めたようだ。「なにかの現象をひきおこすわれわれの行為も、このカオスのなかでは計算外のゆらぎなのかね」
「おっしゃる意味がわかりません。議論のテーブルがちがうと思うのですが」
 ぼくはよくそんな生意気な発言をしたものだ。そんなとき、チャンドラシェーカル教授は、ほらおいでなさったというように、悪戯っ子をみつめる父親のようにほほえんだ。
「確かに別のテーブルで食事をとってる者同士は無関係な他人だが、隣のテーブルで大喧嘩がはじまったら、こっちのテーブルになんの影響もないのかね」
「すくなくとも、飯が不味くなりますかね」
「フォークやナイフが投げつけられたら、飯どころじゃないね」
「それより、隣の客が席についたままもどしちまったら、いやだなあ」
 教授はますます晴れやかな顔をして、それに答えた。そんな話題じゃないのに。
「そうだね、そんな可能性も考えられる。考えたまえ、考えぬくことだ。あらゆる可能性をね。そのうちに、心の中が澄んでくる」
「またメディタシォンのことでしょうか」
「そうだ、心をむなしくし、清澄にさせるということだが、わたしにいわせれば、なにも考えもせずに、ただ心を澄まそうとしても、得られるのは諦念とか解脱の境地なのだ。それだけではいけない。それで世界が救えるかね」
「ぼくも、まずは解脱したほうがいいですかね。ドクター論文なんて慾を捨てて」
「反抗的だし、反社会的だね。それこそテーブルがちがってやしないかな」
「つまり解脱や諦念の境地をもって世界に対峙しろっていうのでしょうか」
「ほほう、すこし賢くなったようだね」
 そんな議論ばっかりだった。
 他人の考えの先をいってしまうことが、厄介なのだ。当時はそうは思わなかったけれど、十九歳のぼくは、物事の先の先まで予測したり、結論づけたりするクセがあって、そのせいで、結局なにもできなくなっていたのだ。
「きみの数学的才能はすばらしいと思うよ。数学の世界での将来がたのしみだけれど、ひとつ問題は、その性格ではないかね」
 このときの教授の発言は、本気だったろうが、三分の一はずれていた。「将来がたのしみだ」という箇所だ。その将来が今であるなら、どこが楽しいのか?て気分だ。

 登り坂が急になってきた。
その日は、ぼくはすこし急ぎすぎたようだった。教授はすこしずつおくれはじめた。ハイデルベルクの城山は、ちょっとしたトレッキングコースだったから、教授の足ではすこしきつかったのだ。
振り返ると、立ち止まって息をついていた。
「だいじょうぶですか?」
「ああ、先にいってくれないか。三分後にまた動きだすよ」
「気をつけて。では、三分後に」
 そういって、ぼくはいっきに城郭の一部の石の橋まであがってきてしまった。不思議なのは、それからの記憶だった。教授は三分後に追いついてきたはずなのに、それ以後の記憶がすっぽり欠落していたのだ。忘れちまったのか。それともたいして印象的なことがなかったからか、城山までの散歩は何回もしたけれど、その日のそれからのことが思い出せなかった。
日記はつけてあったから、その日がいつだったか調べてみることもできる。ただし、C教授と一時間散歩。話題、非線形理論と瞑想。そのくらいしか書いてはいないはずだ。そんな散歩を何度もくりかえしてその学期は終わってしまったような気がする。特にレポートを課することもなく、教授は単位評価Aをひとつ残して、デリーに帰ってしまった。考えてみれば、不思議な教授だった。散歩のたびに、林道や草いきれの強くかおる小道にさしかかると、さもうまそうに空気をすいこんでいた。インドは暑いだろうが、ドイツなんかよりずっとネイチャーのポテンシャルが高いはずなのに。
 そのほかは、いくら思い出そうとしても、あとはハイデルベルク城からみおろしたネッカー河の青いきらめきばかりだった。ああ、そうだ、地球には海も川もあったんだっけ。そんな感慨がわけもなくわいてきた。そんなことは、しばらくなかったことだ。

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「どうだね、思いだせたかね」
「なんか悪い冗談みたいですよ。それに教授は、本物のインド人にみえましたよ。じいさんだったし」
「じいさんで悪かったな。日焼けしたコーカソイドの男なら、ターバンを頭にのせれば、インド人にみえるさ」
「あれは特殊メイクじゃなかったんですね」
「学生の頃のきみはそんな失礼なことはいわなかったな」
「十年たてばね」
「わたしはハイデルベルクで6か月すごしたあと、幸運にも、もとの時間ポジションに帰還できたよ。誤差は数秒だった。着地点が二メートルズレて、気に入っていたバスルームをつぶしてしまったがね」
「百年さきでも、まだ風呂には入ってるんですね」
「そんなことはどうでもよかろう」
 ・・・たしかに。
「それで、第一の段階は成功したわけですね。このぼくがグレなくてすんだわけだし」
「そうだな、ひとつの保険をかけたことになるね。隕石衝突をまぬがれた地球の歴史がつづいていく可能性がひろがった」
「もうひとつの時間の矢のカタストロフのほうはどうするんです」
「きみが二回ほどタイム・ジャンプして、もうひとりのきみがほうりなげた隕石を、インターセプトしてくれればいい」
「かるく言わないでくれないかな。メマイがしそうだ」
「貧血ぎみなのかね」
 さきほどの悪口への返礼らしい。ここは反応してやらない。
「でも、どうやって。こちらには、ワームホールを通過できる機材なんかないんですよ」
「心配はいらない。こうしてわれわれの回線がつながっているのだ。きみの時間座標は追跡してあるから、そちらに機材をとどけてやるよ。きみの部屋の広さはどのくらいかね」
「通常のバスルーム八個分くらいですかね」
「せまいね」
「ほっといてくれ!」
「直径一・二メートル、長さ三メートルほどの金属カプセルをデリバリーしてもかまわないかね。カプセルには、イオン・エンジンの推進システムも組み込んであるよ。それで着地点の微調整が可能だ」
「そいつで、ぼくがチャンドラシェーカル教授に出会う前のハイデルベルクにとぶわけですね。それがうまくいったとして、第二のジャンプは?」
「もうひとりのきみが、アステロイドを動かそうとしている時間帯だね。」
「もうすこし前で、もうひとりのぼくをブチのめしてやれる時間のほうがよくないかな」
「冷静になりたまえ。もうひとつの時間矢ではすでにアステロイドが動きだすという事実が起きはじめているのだ。たとえ、きみが、もうひとりのきみをその直前で殴り倒したとしても、そこから時間矢がまたひとつ分岐してしまうだけだ。隕石衝突の危機にある時間矢はもうひとつの流れになって進んでいるんだから。それに、彼をぶちのめしても、彼の協力者がいるかもしれない。そいつが実行する可能性も否定できない」
「ややこしいな。わかりましたよ。つまり、同じ《土俵》で勝負しなきゃ解決できないってわけね」
「言ってる意味がわからんな」
「おなじリング上でとっくみあわなきゃいけないんでしょ」
「そうだ、その比喩ならわかる」
 まったく手間がかかるじいさんだ。
「第一の着地点からその時間矢の先端にとんでもらう。正確な数字はあとで送る」
「ちょっとまって! 最終的に、どこにいくわけですか?」
「きみの予定にもう入っているはずだよ?」
 すばくやく記憶領域を検索。まあ、そんなたいそうなことじゃないけど、こんな言い方をときどきしたくなるだけだ。そして、父親の手伝いで、木星の衛星のひとつの周回軌道にいくことを思い出した。かなり大きなエクスプローラ船の作業助手として。危険手当もつくから、日当はわりとよい。
「木星の周回軌道です。木星のメタン大気を大量にとりこむミッションがあって、それに付随して四つの衛星の資源調査。まあ、サンプル集めですかね。ちょっとしんどいな。ちっぽけな一人乗りのヴィークルでサンプル採取にもいかされそうですよ」
「そうか、そのタイミングで、並行宇宙のもうひとりのきみは、実行するにちがいない」
「えっ、なにをどうやって?」
「おそらく大きな爆発性の物質を使って、小天体をはじきとばすのだろうな。綿密な計算をしたうえで」
「そんなことをしでかすの?」
「その小天体が木星の大きな重力にひっぱられて加速しはじめ、重力に完全にひきこまれぬようなコースに発射できればいい。それから、次にねらった小天体にむかう。質量が第一の小天体よりやや大きいものでいい。第一の小天体がかなり加速しているから、その衝突によって第二の小天体がまたはじかれるわけだ」
「ピンボールの理屈だな」
「正確にはビリヤード理論といったほうがスマートじゃないね」
 ・・・・どうでもいい。
「二度目に動きだしたアステロイドが本命だ」
「そいつが、三年の間めぐりめぐって、地球の至近距離でワームホール・ジャンプをするというわけ?」
「そうだね。まさに気が遠くなるような計算をしたのだろうな」
「タイミングがすこしズレただけでも、まず狙いどおりのコースはとれないはずでしょうね」
「もう予測できているのかね」
「前回もらったシミュレーションは確認ずみですよ。それで、ぼくは、なにを?」
「もうひとつインターセプト・アステロイドを動かしてほしいのだ。それから三年後という時間矢の先頭、つまり未来で二つのアステロイドが衝突するわけだ。地球の重力圏に侵入するまえにね」
 それから、しばらく考え込んでしまった。
「ひとつきいてもいい?」
「いくつでも」
「なんで、そんなことをぼくたちだけでせにゃならないの。テロリスト野郎をとっつかまえたり、地球のテクノロジーを結集して隕石迎撃態勢をとらせるとかすればいいのに。それとも、彼らの能力をみくびってるわけ?」
「冷静になりたまえ。もうひとりきみがいる並行宇宙の時間帯、つまり時代はいつなのか考えてみなさい」
「あ」
 思わずマヌケな声をだしてしまった。相手のいる時間矢でも、まさしく現在時、今のことではないか。ぼくとしたことが、時間軸をいったりきたり考えていたものだから、隕石衝突の予想時間が、まちがいなくさしせまっていることを忘れていた。もっとも、こちらの時間流のなかではないのだが。しかも、警告しているのが、正体不明の未来人ときては、どの並行宇宙でも、無視されるか、あるいはパニックをひきおこすかどちらかだろう。
「わかるかね、わたしのテクノロジーでも、この方法しかないのだ。きみたちの時代では、できっこないだろう? 突然、大気圏内にとびこんでくる巨大な隕石を打ち落とせると思うかね? しかも破片にしたって大きなものだから、粉みじんにせにゃならぬ。そのうえ、大気圏内で大規模な核兵器を爆発させてみたまえ。隕石のかわりにこんどはなにが大気圏内にバラまかれるか」
「つまり、このビリヤード方式しかないってわけ?」
「そうだ。アステロイドが直前ジャンプするまえに、もうひとつのアステロイドをぶつけてコース変更させてやるしかないのだ」
 理屈はわかった。ただ、ひとつ心配なことが残っている。
「ところで、ほくは、もどってこられるんでしょうね」
「たぶん。わたしときみが計算を間違えなければ。そして」
「そして?」
「利用するワームホールが消滅したり、形状変化を起こさなかったらね」
「神に祈りますよ」
「どの神かね?」
「神はひとつじゃないんですか、ヒンドゥー教でもシーク教でも、イスラムでも」
「そうだな、われわれの場合、神とは不確定要素のことだな」
 いやな言い方だ。
「まだちょっと気になることがあるんですけど」
「なにかね」
「本物の教授のほうは、どうなったのです。ハイデルベルクへ来なかったんでしょう?」
「そうなんだ。インド南部のハイデラバードへ行った後は消息不明になっているよ。公職を辞して、彼の父親の郷里タミール・ナドゥへひきこもったという説もある」
「消息不明は、あの国では日常茶飯事だからなあ。なにしろ人口十八億のカオス的国家だもの」
「今では先端科学とカオスが同居する先進国のひとつだよ」
「それはメデタイ」
「百年ちがえば、国家の栄枯盛衰も想像以上だよ。だが、未来のことは知らないほうがいい。未来とは、きみがつくるものだと思うよ」
 ルードルフ・ヘス、またチャンドラシュカール教授にもどったような口ぶりになっている。
「確かに。ぼくたちは、いま未来がとりかえしのつかないことになろうとするのを止めにいこうとしてますものね」
「そのとおりだ。そのせいで、たくさんの並行時間流が生じないといいのだが」
「まずいんですか? そうなっちゃ」
「なにか経験したことのないことが生じるかもしれない」
 今だって、経験したことがないことがたっぷり起こってる。そう思ったがだまっていた。
「それでは、明日までにタイム・ジャンプ・ヴィークルをデリバリーするよ。これから計算にはいる。
「よろしく」
 そこで通信が切れた。
 それから、あとたっぷり六時間睡眠をとることにした。十年ぶんの時間移動をするとすれば、すくなくとも体調は整えて起きたかった。食事もかるくすませた。TJV(タイム・ジャンプ・ヴィークル)の中で腹を壊したくない。すぐに宇宙空間へ出ていかにゃならないのだ。乗物の中での下痢ほどつらいことはないからね。

 

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