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燻製ニシン 4

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百年の未来から並行世界の人類のゆくすえに気を揉んでいるルードルフ・ヘスとの超次元チャットを終えて、ヘトヘトになって、ぼくはなんとか気分を変えようと戸外に出た。戸外といっても、すべて地下空間の施設の中だ。
 こういうときは、あまりガラじゃないけれど、ボタニカル・ゾーンでリフレシュするというのが、ぼくたちの世界では普通だった。
 ボタニカル・ゾーンというのは、人工植物園のことだ。小惑星地下施設で唯一、大量な植物群を育成しているリラクゼーション地区だ。人工太陽がかなり高いドームの天井に設置され、人工降雨とか、ご丁寧に風までも再現されている。たいした広さではないが、本物の自然と長らくご無沙汰している人間にとっては、まさにオアシスってところだろうか。
 植生は地球の熱帯地方を基準にして整備されていた。なぜって、光や温度や湿度をふんだんに与えてやれば熱帯の植物群の成長はかなりはやいからだ。温帯や高緯度地方の樹木なんかは、数メートルの丈までになるにはやはり数十年はかかる。小惑星まで植林にきてくれる植木屋なんかいやしない。念入りに滅菌された植物のタネを持ち込むしかないわけだ。その点、フローラ、つまり花だけど、フローラは絶え間なく開花して、このゾーンのひとつのウリになっている。ま、季節感は関係ないしね。
 ボタニカル・ゾーンへの入場には制限があって、一週間に二時間を限度ということになっている。月に四回訪れる権利があるわけだけれど、ぼくなんか月に一度ほども来たことがない。この権利は累積されるので、エントランスでIDカードをしめせば、ぼくは一日中だってすごすことができる。もうどれほどポイントがたまっているのか見当もつかない。このさきだって、またいつ来ることやら。
 それでも、ボタニカル・ゾーンには、ひとつの楽しみがある。地球から搬送されたときの消毒の網をくぐりぬけた小生物、つまり本物の昆虫類をみつけることなんだ。ことわっておくが、虫の類はボタニカル・ゾーンでは御法度だ。いかなる種類の昆虫も持ち込むことは許されていない。昆虫そのものより、昆虫から媒介される菌類が、どんな悪影響をおよぼすかわからないからだ。とくに熱帯の生物であってみれば、地球の人口を一時激減させたような熱病のウィルスを運んでこないともかぎらないからね。そのかわり、マイクロ・ロボットの蝶だとかトンボ類は、精巧なモデルが開発されて、ゾーン内に放たれている。一見本物の蝶とみまごうばかりのアゲハなんかにお目にかかると、ここがどこだったか一瞬忘れてしまう。甲虫類や小型爬虫類、つまりトカゲの仲間なんだけれど、精巧な極小ロボットも開発されている。でも、不人気なので導入されていない。どこかのオタクな研究者が、本物そっくりのスネーク・ロボを開発して得意がっていたが、需要がすくなくて生産中止に追いこまれたようだ。なにせ、なにを狙ったのか、そのスネーク・ロボは、小さな昆虫ロボを捕食してエネルギー補充する仕組みになっていたせいでもある。つまりは、ほかの極小ロボットの開発者たちを敵にまわしてしまったわけだ。動物といえば、げっ歯類とかの小動物は前世紀からかなり本物に近いやつが、アトラクション施設で活躍していたから問題なく持ち込まれたけれど、こいつもいつしか飽きられてしまった。
 説明が長いのはたまらないよね。ボタニカル・ゾーンの解説はこれくらいにして、とにかく、ぼくは擬似自然環境に入りこんで、リラックスしながら、これまでの経緯を吟味してみようとしたわけだ。そこでは、エアー・コンディショナーから吹きだしてくる愛想のない空気の流れとは一味ちがった、人工の風が用意されているからね。ぼくにいわせれば、ゾーンに生えている植物群が、空気の流れにさまざまなゆらぎを与えているせいだと思う。植物のあいだをぬってくる風は、ほんとうに予測しがたいニュアンスを持っているからね。
 エントラスから、シダ植物群が両側に繁茂しているプロムナードをとおって、マングローブが群生している池のあたりまで来たときだ。ぼくは、ここでも風の件とはちがった、自然のゆらぎをみつけた。つまりマングローブの長い呼吸根のところに、けっしているはずのない昆虫があるいているのをみつけたのだ。体長三ミリにもみたないアリが呼吸根のうえを行ったり来たりしている。
最新のアトラクション生物かとも思ったが、地球から持ち込まれた土壌にタマゴでもまぎれこんでいたのだろうか。土にしろ石ころにしろ、地球からシャトルで搬送されるまえに、高温の熱処理をされて無菌状態にされてくるのだから、ちょっと信じられなかった。その数も数十匹確認できた。ごくごく小さい種族で、いぜん地球史アーカイブで見たアマゾンのグンタイアリのようでもなかった。いったい地中にはどのくらいまで繁殖しているかわからないが、このゾーンに適応して、環境と調和しているように見えた。義務として管理局に通報せねばならない事案だけれど、ゾーンの専門スタッフはなにしてるのかねって気分だった。ひょっとして、こいつは十分にテストされ吟味された飼育なのか?
 近くのベンチに腰をおろして、アリたちの活動をほれぼれと眺めていると、ちょうど一時間後に、緑色した制服姿のスタッフが、後ろから声をかけてきた。ぼくが入場から一時間も動かないので、そろそろ退出時間だと警告にきたのかもしれない。ところが、こっちは滞在時間ストックが山ほどある特殊な客だった。
「IDカードをどうぞ。一時間経過しておりますが」
 二足歩行のイモムシ野郎は、抑揚のないロボット音声で話しかけてきた。携帯音声変換機を使用しているのだ。この装置は、ぼくだってガス・スタンドのアルバイトでうんざりするほど使っている。
「どうぞ。あと二時間くらいは余裕で滞在できるはずだよ」
スタッフは、IDカードに自分の照合ボックスをかざしている。
「確認いたしました。あと二百時間可能です。この施設はメンテナンス時をのぞいて、無休でオープンしております」
 そういうと、イモムシ野郎は、にこりともせずIDカードを返してよこした。
「もうじきひきあげるよ。そのまえに、ひとつきいてもいいかな」
「植物群のご案内は、マイクロ・ガイドボックスをお貸ししますが」
「イレギュラーな質問だよ」
「といいますと?」
「このゾーンに新しい生物が導入されたのかい?マイクロ・ロボットじゃない生き物が」
「なんのことをおっしゃっているかわかりません」
「マングローブの根っこでうろちょろしているのは、本物のアリじゃないのかい?」
「あ」と、その男は、微妙なニュアンスの感嘆詞を発した。変換機でも、これは「あ」としか伝えようがない。それからしばらく黙っている。
「数百匹はいるんじゃないの、実際」
「はあ。管理センターでは承知しているとぞんじますが」
「こういうのはアリなのかい?」
 べつにダジャレをいったつもりはない。相手はすこし不快げな顔をした。どうやら、関知していない案件にぶちあたったらしい。
「いずれにしても、センターに照会いたします。お客様は、すみやかにこの地区からご退去願います。とくに有害ではなさそうですが」
 とくべつこだわるつもりもなかった。興味があるとすれば、地球からアリがこの小天体にまで密航する確率のほうだ。そして、この環境のゆらぎが、どういう変化へと波及していくかの予想も。
 緑色のイモムシ野郎は、あっというまにセンターのほうに走っていってしまった。すぐさま、検疫係をひきつれて大騒ぎをはじめるのは目にみえていたから、こっちも早々にひきあげることにした。アリの密航といったが、おそらくタマゴとして宇宙空間を越えてきたはずだ。これはなにかのヒントになりそうだ。この瞬間にはわからなかったが、こっちもなんだか別のアイディアをもらったような予感だけはしていた。
「わかりました。もう帰りますよ。ちっこいのがウジャウジャいるのを見たら、気分が悪くなってきましたよ」
 その一言を、イモムシ野郎にいわなかったことがすこし悔やまれた。
 帰宅して、パーソナル・アシスタントを開いてみたが、ルードルフ・ヘス閣下の通信は入っていなかった。かわりに、父親から来週にせまっている木星軌道での作業アルバイトの確認事項が送られてきていた。単純な搬送アシスタント要員だけれど、ガス・スタンドの十倍の危険手当がつく。
「健康状態は良好か?」と、きいてきた。まさか異次元コンタクトでヘトヘトですとはいえなかった。睡眠サイクルをノーマルなものにもどしておくようにとも忠告された。いつの時代にもオヤジのいうことは同じってわけだ。

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