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小説『猫迷宮』33 上巻末尾

丸尾印刷の月末の集金の集金は、あっけなく終わってしまった。近隣で、小口ばかりだったのだ。あとは、蒲田方面の会社が一つ残るだけとなる。

「神尾君なあ、そこが済んだら、うちの当座に直接入金しといてくんないかな。口座番号はここにあるよ。うちも明日から夏休みだ。機械を動かすほどの仕事もねえしな。盆明けに、あれだ、大口の依頼がくることになってるから、それまで骨休みだな。島ちゃんも帰ってこないし、カミさんも実家の墓参りにいきてえらしいや」

丸尾社長は体をゆすって立ち上がってきた。当座預金の口座番号を書いた紙きれを手渡された。

「おっ、それから、こいつをな。月末だし」

そういって、茶封筒をさしだした。

「今月分の校正料だよ。それに、集金やらなにやらだいぶスケてもらったから、すこしイロをつけたよ」

「たすかります」

と、頭をさげて受けとった。アパートの家賃が払えるかの瀬戸際だ。払えたとしても食費がなくなりそうだったのだ。

「じゃあ、お盆明けに顔をだします」

「おう。紅花舎も閉めちまったらどうだ。困りゃあしないだろう」

丸尾社長は、そのまま奥にひっこんでいった。印刷機も止まって、しんとした社屋のなかにミシミシという足音だけが響いている。社員も来ていないようだ。出しなに柱時計を見ると、午後四時を過ぎていた。紅花舎を夏期休業ににしたとして、お盆明けまでなにをしていればよいのか。ミドリちゃんも休んだままだといっていたが、アパートにも戻っていないのだろうか。帰りにそっちに寄ってみようかとも思う。

階段をあがり、紅花舎の事務所にもどると、そこらをすこし整頓したり、なにも入っていない冷蔵庫のコンセントをぬいてしまったり、窓の鍵をかけてまわったり、一応の片づけごとをしてしまう。あとは、休業を告知する張り紙をだせばいい。コピー機からA4の用紙を一枚ぬいて、マジックで「八月十三日まで夏期休業いたします」と下手な文字で書いてみた。これをシャッターにはりつけておけばいい。夏期休業どころか、ずっと休業になるのではないかと皮肉な気持ちになった。秋口には、あの『昭和戯文集成』の仕事が再開されるだろうが、もうひとつの『猫文書』はどうなることか。著者がこの夏を越せなかったら、またしても流れてしまう。ヘンな予感がしているのだった。

思い出して、丸尾印刷からの手数料の封筒をあけてみた。七万円入っていた。最初にもらったときと同額だった。どういう計算なのかわからないが、結局十万に届かない仕事だったわけだ。赤塚さんの旦那から預かった十万は、まだ手をつけぬまま持っている。あれを使おうとすれば、探偵もどきの調査もすこしはせねばならない。このつぎ電話がかかってきたら、なにかの情報を持っていないとタダドリになってしまう。それで、ふと思いついて、電話帳をひっぱりだしてきた。

千代田区の保険会社の支店の電話番号を調べてみようと思ったのだ。先日の交番で覚えた捜索法を試してみようと思いついたのだ。

まず、だれをヨソオウカ? これは赤塚さんのまえの勤め先の者といえばいい。会社からかけていることにしておく。本当のことだ。なんの調べか? 離職票とか年金手続き、または健康保険のことでとかを口実にしてみよう。なんで、さがしているのか? 本人が最近転居したために、連絡先がわからない。おかしくはないよな、と自問してみねる。赤塚さんから依頼があったのに、連絡がないのでとかなんとかで誤魔化す。メモ用紙に考えられるだけの口実を書き連ねてみた。すべて、ウソともいえるし、本人の居場所をつきとめるための方便ともいえる。あんまり期待はできないが、こういう調査をしたという実績が大事だ。あとはもあの《庚申研修会》なる団体の筋だろう。そちらは、なんだか厄介なようなので後まわしだ。

デスクの電話機をひきよせて、電話帳からひろいだした生保の営業所の番号をまわしはじめた。千代田区と文京区だ。赤塚さんの住居に近いところははずした。六月の雨の午後、赤塚さんは、紅花舎を経由してどこかへでかけていったのだ。本郷、水道橋から神田方面にちがいない。と、推理した。

探してみると、それらしい生保の営業所は五つほどだった。大手が一か所、聞いたことのない社名のところもあった。

いちばんマイナーっぽい生保会社からにした。

しばらく呼び出し音がつづいた。もう終業時ちかかったので、ダメかとも思う。よし、次だと思った瞬間、電話口に人がでた。

「はい、お電話ありがとうございます**保険です」

若い女の声だ。

「あの、つかぬことを、おたずねいたしますが、そちらの社員の方で、アカツカ ヨリコ様という方は御在籍でしょうか?」

そういうと、きゅうに不審そうな応対になった。

「アカツカ様が以前に勤めていた会社の経理部の者です。ハイ、御転職先が生保だとうかがっていたもので・・・・」

「少々お待ちください」

女はだれか同僚か上司とやりとりしている。そのやりとりがまる聞こえだった。なんだか、脈がありそうな、心当たりがありそうな会話だ。一発目でアタリなのだろうか。

「はい、モシモシ、エー、電話変わりました。人事のサトウと申します。どういった御用件でしょう?」

年配の男の声だ。すかさず、考えていた書類送付の件を伝える。本人が最近転居したらしく、電話が通じない。新しい就職先が千代田区の生保だとは聞いていたので、オタクあたりではないかと・・・・。あらましそんなことを説明した。

「はあ、そうなんですか」と、人事の男は一応は納得した。女の事務員のつぎにすぐに人事の男が出てくるくらいだから、ワンフロアーの小さな事務所なのだろう。それに人事なんていっているが、どうせ支店長だ。

「アカツカは赤い塚で、ヨリコは信頼の下の字、頼朝のヨリです」

わざとクドクいってやる。これは交番の巡査のマネだ。

「赤塚頼子ですよね」と、むこうが復唱した。頭に漢字を浮かべたような発音だ。「はい、確かに六月から契約社員になって、試用期間で勤めていただいてましたけど」

アタリだった。でも、興奮しないようにしながら、落ち着いて返す。

「そうでしたか。で、いまも御在籍ですか」

「いえ、本人の御希望で、七月二十日に契約を切らせていただきましたよ」

赤塚さんはひと月半でヤメたのだ。

「わかりました。お手数をおかけしました。あとはこちらで調べてみますので、お邪魔いたしました」

いかにもこのての照会電話に慣れているといった物言いで、礼を言って電話を切った。それにしても、ショボそうな生保に勤めていたわけだ。自分のカンがピタリと当たっても嬉しくはなかった。アシドリの一部がみつかっただけだ。赤塚さんはすぐに辞めていたのだから。それでも、聴き取った情報をすべて書き留めておく。電話帳に記載してあるその生保会社の所番地と電話番号、人事のサトウ、これは佐藤でまちがいないだろうが、すべて書き出す。短期だが契約して働いていた期間と本人希望により退職の事実も。電話一本で得た情報だったが、都内を歩きまわってようやくそこまでつきとめたようにも見える。アコギな興信所なら、都内全域をくまなく聞き込み調査した結果云々と但し書きを添えるところだ。それだけ経費がかかっていることをにおわせる作文だ。でも、そんな虚飾はいらないだろう。今度、旦那から電話があったときに話してやれる材料がひとつでもできたのにホッとしただけだった。どこに勤めていようが、砂土原町のマンションか、あの神楽坂奥の隠れ家かにもどっていなければ意味のないことなのだ。

「さあて、庚申研修会かあ・・・たしか神奈川の住所だったよなあ」

と、つぶやく。神奈川の電話帳はなかったので、ちょうど蒲田に集金にでかける用事があるから、そのとき電話ボックスで調べてみようかと思う。ともかく、十万円の経費ぶんの仕事はしたかった。まず、なんとしても赤塚さんに会ってからだ。旦那への報告は本人の意向を聞いてからでないと、恨まれるかもしれない。赤塚さんと秘密を共有しているのは確かなのだから。たいした秘密でもない気がしたけれど。それでも、一晩泊めてもらったアブナイ一夜があったわけだし、半分はこちらも共犯との意識もないではなかった。

社主の大曲泰造も消息がわからない。ミドリちゃんもいつ帰ってくるかわからない。赤塚さんの失踪の理由もまだはっきりしない。『猫文書』の著者、稲葉峯生氏も音信がプツリと途絶えている。自分の周囲から、次々に人が消えていく。他人というものは、こうもたやすく目の前から消えていくものなのだろうか。それとも、消えた人はそれぞれが、探してほしいというサインを残しているのだろうか。

自分はグズグズと紅花舎の社屋にくすぶっていて、熱心な捜索をはじめようとはしない。それぞれの足どりを追いかけているうちに、とてつもない迷路にふみこみそうな嫌な予感がする。こんなことが、ずっと以前にもあったような気がしてならないのだ。やはり夏の夜であったような気がする。しかし、記憶をたどろうとすると、ふいになにかの幕がおりるように、記憶がぼやけてくるのだった。

「明日、蒲田の奥をさがしてみよう」

と、つぶやいていた。よりによって、いちばんなじみの薄い人物の消息からはじめようというのだ。稲葉峯生氏はどこへ消えたのか。消極的な選択にはちがいないが、最後にきた手紙のことが妙に気になっていたのだ。霊媒師。自分のまえに口をひろげている迷宮にふみこむまえに、なにかしらアリアドネの糸のようなものをつかんで出かけたかったのかもわからない。糸口の連想からそんなことを考えてみただけだったが、果たしてどのような霊媒師が待っているのか、いないのか。すくなくとも、あやしげな宗教団体にふみこむよりはましなような気がした。それに、シラネアキラの依頼もある。神官のなりをした少年。しつこく父親をさがせと懇請してくる子ども。彼はいったい何者なのだろう。

出口のみつからない迷路だとて、ふみこまねばならないときもある。あえて戻ってこようとも思わなければ、おそれることもない。

独りでいるうちに、いよいよおかしな覚悟のようなものがわいてきた。母親が死に、世間にたった一人で投げだされたときから、だいたいそんなふうにして世の中を渡ってきたようなものだ。いずれ、仮の住処も追い出されるようにして出なくてはならないはずだ。あらたに部屋を借りるほどの蓄えもない。この夏、一匹の野良猫のようにあの町この町をあるきまわるというのも、なにか自分にふさわしいことなのかもしれない。

「かまやしないさ。いけるところまではいくだけだ」

声にはださなかったが、ことあるごとに心の中でつぶやいてきたいつもの言葉が、出発の合図だったような気がする。それでも、それからふみこんだ迷路というのが、まるでおもいがけない方角に自分をひきずりこむものだったとは、このときは、まだ予感すらできなかった。いや、引きもどされ、そのあとで、またぞろズブズブと引きずりこまれたとでもいうべきだろうか。

長くて暑い夏がはじまったのだ。 

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