2021/3/14

 不思議な体験を一つ。ある時、マクドナルドに入ると、学生時代に見たことのある、三、四人のグループがいて、驚いた。そのグループは、きっと似た人だろうと思った。三、四人共。声も。全て。私は近くの席で、とても不思議だと思いながら、観察し、耳を澄ませた。

 ここまでをTwitterに書いて、続きをNoteに書くことにした。変な人と思われたくもないし。

 見えるものを訝しむようになったのはこの時からでもない。教訓と捉えたらいい。良い人間であるならば、何も恐れる必要はない。そして、良い未来を描く必要性もある。周りの意識も重要だ。それはあなたも、周りもそれぞれにとっても良い効果を発揮するだろう。

 わたしが描いたあなた、が将来に存在する。同じように、あなたが描いたわたしが将来に存在する。これを仏教では空という。

 わたしが描いたわたしはわたしであるだろうか。あなたが描いたあなたはあなたであるだろうか。

 光の粒である私たちは考えを持っていて、煩悩も持っている。年も取るし、体力も落ちる、文化の差異も、知識の差異もある。一息一息で生きてゆく中で、それぞれの希望を輝かせる。

 ある時、達磨大師のような方にお聞きした。わたしのような時期というものは、達磨大師さんにもあったのでしょうか?あるものなのでしょうか?段階として。そうすると、達磨大師さんは、空を見て、あ、月だ。と仰った。私も月を見ようとして動いた。その瞬間、知性が吹っ飛んだ、分別してみていた景色には名称はなく、隔てるものがなく、自身という存在もなく、もちろん分別がないので、知覚だけを頼ってみるのが精一杯の景色に、一切の悩みは存在し得なかった。その景色さえ、景色とは呼べない事実の中で、怖くなって、分別を使って、今私はここにいて、あれは木で、あれは職場で、と考えたものだった。その経験すらも、実際、無意識でずっと、胸中で私が望んでいたことだった。

 私たちは望もう。昔戦争があったとき、それはとても大きな大きな縁起によるものだった。個人個人が希望することは、強大な空の見地からは非力な部分もあるけれど、腐敗した縁故政治権力の時代は去り、生まれて、生きて、去ってゆく、その積み重ねの中で、今今お互いが悲観的に考えることは無意味であることを知ろう。

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