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突然の無意味 2024/03/22の日記

山括弧塾ありました。ある日があるということは、無い日もあるということ。そして今日は…。

今回はなんか変な話だった。いや、別に今までの内容が変でないと言えば嘘になるけど、今回は特段よくわからない…とはいえある意味で面白い話をしていたと思う。

今日のヘーゲルは最初からいきなり法律の話をし始めていた。正直こっちからしたらなんか急にお前のフィールドじゃん、という印象だったのだが、その次にいきなり運命とかいう哲学ではあまりマジになって使われていることが少ない概念を持ち出して、現実の諸関係に左右される法律の罰と比べたときにわかる運命の下す罰の必然性について述べ初めたので、正直ビビった。

やっぱりヘーゲルは相変わらずキリスト教の主要概念である運命や愛に哲学的な理論武装を与えて、おなじみの「概念」に高めたいらしい。でも、運命についてはいやそれ普通に公正世界仮説じゃねえか、と思ってしまった。でも実際はもっと複雑でなんか説得力にある話なのか?全然わからない。誰か…。

あと、マクベスの話が出てきた。ヘーゲルは確か精神現象学でもアンティゴネーの話をしていた記憶がある。ああ見えて(元の印象も特にないが)実は演劇が好きみたいだな。

近代哲学者(と田島正樹)はやたらと古代ギリシャ演劇が好きだ。永井によれば、シェイクスピアはギリシャ悲劇の再生産だそうなので、ヘーゲルがイエスの話をそういうのに関連させようとしてるのもやっぱり当時に特有の趣味っぽい。ただ、ヘーゲル自身がキリスト教の中にギリシャ的なものを読み込むいわゆるヘレニズムみたいなのがやりたい理由は全く謎だ。それがいわゆるロマン主義の行き着く先かどうか知らないが、ロマン主義は少なくともそういうもんじゃないだろうし、なんなんだ?

ただ、法律がそれぞれ一回きりの悪行を類型化してしまうことについて、本来功利的な行動が規則功利主義に従属することによって道徳性を失うと主張したR・M・ヘアの二層理論と類比的になる話は面白かった。

つまり、ヘアはそれぞれの行動が規則だけでなく功利性原理(いわゆる最大多数の最大幸福)に適っているかどうかを吟味すべきだと言っているんだけど、それはここでヘーゲルの言っている「愛」の一回性に近いんだよな。それが法律、または規則功利主義における規則によって外化・疎外されてしまっている、という話。

それで、話は結局法と運命からイエスの話題に戻るんだけど、そこからはもう全然意味がわかんなかった。社会契約論がどうこうみたいに質問してる人もいたけど、全く理解できていない。ていうか、ほぼ寝てたと思う。意識体験があった記憶がない。意識体験が無い記憶はありえない。

ともあれ、最後に永井が歴史に意味的な連関なんてないと言い切っていたのは良かったな。それだけは覚えている。歴史はまだ終わってないから類型化するモデルにはならないし、一回きりだから比較対象もない。だからそこに法則性を見出すことはできない、まして未来を予想することなんて不可能で、そういう法則性を用いた主張(例えば史的唯物論とか)は全部ウソなんだと。

まあこれは何の歴史でもそうだけど、それが次の世代に受け継がれる時、そこでは何かしら常に関係ない独自のものが生まれるから、完璧な因果関係なんてのはないんだよな。もしあっても、それは多分人間には解明できないものだろう。

だから、そういう点では人生にも意味はない。単に意義とかそういうことではないが、少なくとも人生に意味的な連関はないと言える。

けどその割には関係あることも起こってはいて、それはなかなか不思議だ。現実ではたまに今までの課題意識になかった疫病が流行ったりして大混乱みたいなことがあるけど、前例を見るとどの時代の人も似たような悩みを抱えていたりする。

永井は、最後には歴史はどんどんバラバラになっていくんじゃないかと笑いながら言っていた。関係ないところで関係ないことがバンバン起きる。世界はバラバラになっていく。

それは私もいいと思った。それはある意味でニヒリズムの時代だと言えるな。人類が因果関係のニヒリズムの時代に突入したらめっちゃ楽しそうだ。まあ、そうなったら私は真っ先に死にそうだが。

こういう話、正直70過ぎてまともに稼ぎもある老人の言い分とは思えないが、そこが永井のいいとこだ。私もそうなりたいと思う。私は永井どころか一般的な市井の人間程度にさえ頭が良くないが、あれぐらい世間の責任意識から距離を取って生きられたら最高だと思う。あんなふうになって暮らしたい。なんか比類なくて唯一なやつ。なりたい奴がいるんじゃ…こういうふうに…。

ハァ?

完。

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