見出し画像

松本清張と司馬遼太郎

初めて司馬遼太郎の本を読んだのは中2の時。「燃えよ剣」でした。面白くて試験期間中も読んでたら怒られました。親にも先生にも。

その後も司馬さんの小説が好きで読んでたら「幼稚だ。あんなもん読んで喜んでるなんて。」と高校教師の叔父に馬鹿にされました。学生だったし司馬さん読むのが何がそんなに悪いことなのかわかりませんでした。

その叔父さんは大変な学歴主義の人で、大した学歴もつけずに音楽業界に進んで入っていった自分のことなんか、つまらない奴、程度にしか思われてなかったようでした。その叔父さんはニーチェや丸山眞男を読んでました。「オマエは音楽を聴くならストラヴインスキーは聴くのか」とか言われましたがその頃は自分はロックしか聴いてなくて。それは知らないと言ったら鼻で笑われたような覚えがあります。

私は司馬さんの小説を何で読んだかというと面白いから読んでました。「燃えよ剣」を読んだあとは興奮して通学のバスの定期入れに土方歳三の写真からを入れてました。もうカッコよくて仕方なかったんですね。高校生になったらその定期入れに入る写真はAerosmithのスティーヴン・タイラーになりました。

その後、自分は心底ロックが好きになり音楽の道に進みました。知的興奮を覚えさせてくれるものはどんどん飛びつき、やがてフランク・ザッパにのめり込みそれがきっかけでラヴェルやストラヴィンスキーを聞くようになりました。

やがて関心は哲学に移り、ヘーゲルに出会い、レヴィ=ストロースの構造論に衝撃を受け、フッサールを読み解くのに13年かかったりetcとても楽しい読書人生を過ごしてこれました。随分と長い旅でしたが、そんな自分の読書のスタートは司馬さんの「燃えよ剣」への興奮だったと思います。

今の47歳になるまで本当には色々な本を読み、自分の本棚は溢れんばかりになりました。

しかし、思い出すと。

司馬さんを読む自分を馬鹿にした叔父さんの家には本棚はありませんでした。図書館で借りて読んでたのではないかと思うのと、あとそこで思うのは「あの叔父さんは本が好きなわけじゃなかったんだな」と思います。丸山眞男とか読んで何かその本の後ろにある国家とか権威の方が好きだったんだろうなと思います。

大人になってから司馬遼太郎の本を馬鹿にする人たちのその理由がわかりました。それを歴史学としてみたら確かに幼稚だし、膨らまし過ぎてるところはあります。中学生が読んでウキウキするような歴史小説って…権威ある歴史研究家からみたらきっとおかしなものなのでしょう。馬鹿にされても仕方ないのかと思った時期もありました。

ところが、ケルト神話やケルトの歴史を読んでいた時に、有名なアーサー王物語のあのアーサー王は本当は実在しないかも知れないという一文を読みました。えっ?!そうなんだ?じゃあアーサー王伝説を読んで心躍らせて剣を振ったヨーロッパの騎士たちはなんなんだ?と考えたとき、、、

「それって土方歳三の写真をワクワクして定期入れに入れた自分と同じじゃないの?」

と思いました。

歴史を膨らませて物語を書いた司馬遼太郎。それはあったかなかったかもわからない会話を盛り込んだものでした。しかし自分は確かにその物語に興奮し書物を読むようになり、アマチュアですが物書きになり、ちっぽけですが古本屋をやろうかというところまで来ました。実際にはいなかったかも知れないアーサー王伝説に興奮して剣術を磨いたヨーロッパの騎士と、存在のレベルこそ違えど、物語に育てられたという点では同じでないか、と思うのです。

「司馬さんは歴史家ではない。歴史家はあったことを正確に書いていく。司馬さんは歴史学ではなくファンタジー文学だったんだ。」

私は今、そう思ってます。歴史ファンタジー。だからこそ興奮したし、だからこそ、普通の歴史家と司馬さんは違う。他の歴史家と比較して司馬さんが幼稚なのではなく、司馬さんのようには他の歴史家が書けないのだ、と思います。

まともな歴史家なら。新撰組って。幕末期の抵抗勢力で、政府警察みたいな感じで。取るに足らない存在だと思います。歴史を動かしたのは薩長土の勤皇の志士たちでありまともに研究するのならそっちをすべきです。

司馬さんはそんな新撰組の副長にスポットを当てました。組長や美男子だったと言われる沖田総司の方が普通なら絵になるところでしょうが、敢えて、この副長でした。薩摩藩が早くからアームストロング砲という最新の大砲を配備し、長州藩では奇兵隊が編成され銃や大砲の時代に変わって行ってるというのに。剣を捨てない土方。龍馬はとっくに剣を捨てて新時代を切り開くというのに、負け戦を重ねて、死ぬそのときまで剣を捨てない土方。

歴史というまともな見方では、こんな人間はクローズアップされるわけがない。しかし、そこにスポットライトを当てて、歴史ではなく、司馬さんは一人の人間としての生き様、時代変化に取り残されていく不条理、死んだ仲間を思いながらそこから敢えてもう一度剣を握る土方歳三という人物の不器用さ。そこを描くのです。負けて死んでいくヒーローなんていませんが、なぜかヒーローに見えてしまう錯覚。

司馬さんはファンタジアだったんだ。
だから面白かったし。
それを面白いと言って良いのだ。

随分と時間は流れましたが、今、「燃えよ剣」について、司馬さんについて、そんなことを思います。#名刺がわりの小説10選に「燃えよ剣」がたくさんあちこち見られるのも、とても嬉しく思いますし、叔父に馬鹿馬鹿にされましたが、自分は間違ってはいなかったんだと強く強く思います。

司馬さんのことばかりで、松本清張のことが書けませんでしたが、松本清張の小説はあれは推理小説の顔をした人間学だと思います。司馬遼太郎が歴史小説の顔をしたファンタジー文学だったように。

いずれにせよ。

読んで面白い。

これが本を読む上でのモチベーションです。当たり前と言えば当たり前ですが。司馬遼太郎と松本清張。この二人は私にその当たり前をいつも思わせてくれるのです。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?