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フッサールは私たちの背中を強く押す。「あなたはあなた自身の見方そのままで良い。」

いつもTwitterで書いているエドモンド・フッサールの話を書いてみたいと思います。

哲学なんて意味わからないし興味がないと言う人も大半だと思いますが、フッサールが提唱した現象学という考え方は今我々が生きる上で「幸せとは何か」を考える大きな思考のソースになるはずです。

フッサールの本は読むとむちゃくちゃ難しいんですが、ちょっと噛み砕いて書いてみたいと思います。

フッサールの登場は一体何がそんなに衝撃だったのか。

上がおおよその西洋哲学の世界の流れです。

西洋世界は何と言っても聖書です。
キリスト教です。

その影響力は我々日本人の想像を絶します。
この世を作ったのも神様、すべて神様。

しかし。

いわゆるイタリアのルネッサンス期辺りから様子が変わり始めます。

ガリレオ・ガリレイなどが物質の運動の仕組みを解き明かしたり、ミケランジェロが人間の姿を克明に彫刻にしたり、フィボナッチ数の発見もこの時期ですし地動説というのも確かこの辺りでした。

とにかく。

聖書ではなく、人間が自分たちで科学してみる心というのが生まれました。

この科学する心の動きがヨーロッパ全体に広がっていき、それが西洋哲学の発展となったのです。

人間の意識とは、認識とは。
その見えない精神の部分の真理を突き止める。

これがデカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲルという偉大な思想家を生みました。

そして。

この西洋哲学のほぼ極みに達したのがカントとヘーゲルだったと個人的に思ってます。特に認識論という点ではカントでした。

カント。

この偉大な思想家は人間が物事を認識していく有様を解き明かしました。

認識の科学。

それがカントの哲学だと言っていいと思います。

例えば、ここに一つのテーブルがあります。

これをカント流に認識するとどういう説明になるか。

それは六角形の木材を上部構造とし、一辺の長さが○○mmで
その下には鉄の脚が角度○○度で3方向に設置され………etc
もっと言えばその木材は………から輸入された○○の木を使い
鉄脚を製鉄したのは○○○鉄工所で…………etc

カントの認識というのは早い話、こういう感じです。

ここで少し話が変わります。

ある事件が起こったとします。
XさんとYさんがケンカしました。
その現場を複数の人が目撃していました。
警察が事情聴取を行います。

Aさん「私はYさんが悪いと思う」
Bさん「私はXさんが原因だと思います。」
Cさん「最初はYさんが仕掛けたように見えたけど結局殴ったのはXさんです」
Dさん「本当はYさんが殴ってるんです。それをXさんがやったようにYさんが見せました」

起こった事件(事実)は一つです。

しかし、人間の認識というのは、立場が違えば多岐に渡ります。

この問題について西洋哲学は

とにかく細分化したり細かい認識や計算を用いれば解決するはずだと考えました。きめ細かい認識の作業こそを突き詰めました。

認識の確かさ。
認識の細かさ。

これが西洋哲学であり、この認識力が科学・化学と相まってヨーロッパ世界の発展となったのです。

ところが。

20世紀に入ってすぐ。この見方に大きな転換点をもたらす哲学者が登場します。それがエドモンド・フッサールという人物でした。

フッサールはAさん、Bさん、Cさん、Dさんの認識が違うことについて、

「その違いこそが本当だ」というようなことを言ったのです。

起こった事実は一つなのにそれを見たAさん、Bさん、Cさん、Dさんの認識はそれぞれ違う。

フッサールは…Aさん、Bさん、Cさん、Dさんそれぞれの見方を、それぞれで良し👍とする。
そんな考え方を提唱したのです。

えっ、ちょっと待ってください。起こった客観的な事実は一つなのにそれはおかしくないですか?

…という疑問は当然浮かびます。

しかし、フッサールは、そもそも客観的事実が一つこの世に存在するというその前提がそもそも満場一致で認識できないでしょ、ということを言ったのです。

ここが大きな大きな、とてつもなく大きな思想界の転換点となったのです。

そもそもガリレオやニュートンなどの科学者、その他、カントやヘーゲルなどの思想家は「この世が客観的に存在する」ということを疑ったりはしませんでした。それを前提に自分の研究を進めていたのです。当たり前と言えば当たり前の話です。しかし何ということでしょうフッサールはその当たり前を切り崩したのです。

この世は客観的には存在しない?このフッサールの言い分はあまりに無茶苦茶ではないかと思うのが当然ですが、しかし。

フッサールが登場した20世紀初頭。

フッサールの言い分を後押しする物理学が登場しました。

アルベルト・アインシュタインの相対性理論でした。

アインシュタインはみんなが体験している時間はそれぞれ違うと言いました。世界にたった1つの時計があってみんなその時計の中で生きているものだと思ってたんですが、アインシュタインの研究によってみんなが体験してる時間は違うと言うことが証明されてしまいました。客観的な時間というのは存在しなかったのです。このことはフッサールが提唱した現象学。これを強烈に後押ししたのです。

最初のテーブルの話に戻ります。

このテーブル。客観的な事実を把握しようとしたら昨日書いたように、一辺の長さが何センチとかそんな感じの認識になります。

しかし。

もしこのテーブルを真上からしか見たことがない人がいたとしたら、その人はこれをテーブルと認識するのではなく六角形の板が存在すると認識するはずです。

フッサールは、その人が六角形の板に見えたのならそれはそれで正解だ。ということを言ったわけです。客観的事実がどうかということよりも個人個人が見えるその風景。そちらから物事をもう一回考え直してみようと提唱したのです。

夜空に浮かぶお月様。
例えばこのお月様を子供たちと眺めていたとします。

「きれいだなー。」
「きれいだね。」

でも、もしここにガリレオやカントがやってきたら

「あなたたちのその認識は間違ってる。そもそも月は発光などしていない」

「月という衛星をどのように客観的に認識してそういう見解に至ったのか。」

…と言われるはずです。

科学的見地に立って客観的な科学的事実に基づきなさいと言われれば、そもそも月は発光してないから綺麗だねなんていうのは間違ってるぞ子供に言わないといけません。そもそも地球は時速何キロかで自転して太陽の周りを回り、月は時速何キロで地球を回っている。こんな客観事実を子供に伝えないといけない。

しかし。

フッサールはその時速何キロで自転する地球というのを我々は認識できるのか、それよりも「今夜のお月様キレイだね」「ウサギがいるように見えるね」で、もし子供が

こんなウサギの絵を描いたら

我々にとっての事実とはこっちの絵だ!

…ということを言ったのです。

もし仮に小さな子供が学校か幼稚園で何かの風景の絵を描いていて、そこにいるはずのない動物やお化けを描いたとしましょう。先生によってはそんな現実にないもの描いてはいけませんと是正を命じる人もいるかもしれません。

しかしフッサールなら「子供たちがそれ見えたというのならそれは正しい。そのまま描きなさい。消す必要など無い。」と言うはずなのです。

フッサールの考え方に出会った時。

私はとてつもない衝撃を受けました。

そして、これは途方もない性善説だ、と思いました。

今、私が見ているこの光景。

それを全面的に肯定してくれるのですから。

「あなたはあなたの見方で生きて良い」

フッサールが言ってるのはつまりこういうことです。

事実がどうとか他人がどうとかでなく

「あなたの見方を優先させなさい」

…と言ってくれているのです。

自分勝手な、独善的な見方でないかという批判はあるでしょう。

しかし、現代社会、あまりに個を押しつぶすような圧力とか、モノの見方・考え方の強要が多すぎはしないか。若者がこれだけ多く自殺したり鬱病になったりしてる、それは「あなた自身で良い」と言ってくれる人がいないからではないか。フッサールに出会った時、私は何かものすごく大きな後ろ盾をもらったような気がしました。宗教的なことではなく、ただ私が私として見てるその光景を信頼して良いのだ…ということを教えられたのです。

ここから先の話はまた別の機会に譲りますが、

西洋ヨーロッパの思想界はフッサールの登場によって地動説(科学)から天動説(主観)の方へと一気にギアが入れ替わりました。ピカソは内面に見た印象をそのまま絵にしました。フロイトはさらに自己意識を深く探って深層心理や夢という個人の内面を探索しました。それは今までのヨーロッパが見たことがない光景だったのです。「私とは何か」を外から探るのではなく中から探る。サルトルの実存主義という考え方もこのフッサールを継承することから生まれ、このサルトルの実存主義がジャズやロックという内面の発露という20世紀の個人が鳴らす音楽を力強く生み出しました。

長くなりましたが以上がエドモンド・フッサールの解説です。

他人の見方ではなく、私自身の見方。

これを優先させること。

以下は余談ですが、

スタジオジブリを作った宮崎駿監督は、1970年代の助監督時代からそのアニメーション作りの手腕が高く評価されていたそうです。そんな宮崎駿監督がいよいよ自分のオリジナル作品を作っていこうとして製作の話を映画会社に持ち込んだ時、激しいバッシングにあったのだとか。

「宮崎の作品は森にオバケがいるとかネコバスが森から走り出すとか意味不明」

「あいつは頭がおかしい」

そんな批判を受けて、「このまま終わりたくないけど仕方がない」と思って、一時は映画界から身を引いて引きこもったことがあったそうです。

宮崎監督のすごいところはどんなに批判を受けても、幼少期の体験に自分が見た森の原風景と自分自身の中にあった心象風景をそのまま描き切ったということだと思います。科学的に見ればこんなのおかしいし幼児性極まりないし。映画会社の人が言った「あいつは頭がおかしい」という批判も、もし自分が、その映画会社の担当者の立場ならやはりこの作品はボツにしただろうと思うのです。

「自分が見たままをそのまま描く」

宮崎監督はフッサールの最も大きな後継者だと私は思ってます。

そして、これらの作品がこれだけ世界に広まってこれだけ支持されたということは…

「ああ、なるほど。森にトトロはいたのか。」

…とも思ったりするのです。

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