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山口県下関市のお土産は一枚の葉っぱでした。その葉っぱにまつわる物語。

1644年から1912年まで中国大陸を支配したのは清帝国。その清帝国は満州民族が作った国でした。

満州民族とは、中国大陸のかなり東側にいる民族で、弁髪をしているのが特徴的。漫画ドラゴンボールに出てくる桃白白(タオパイパイ)や映画のキョンシー。あれらは満州民族のファッションスタイルです。

その清国は1912年に滅亡。

最後の皇帝だった愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は首都の北京から逃亡し祖国の満州エリアに逃げ込みます。そしてそこで再起を図ろうと考えます。

ちょうどその頃、中国大陸への進出を目論んでいた当時の日本、大日本帝国はそのラストエンペラー溥儀の満州国設立を全面的にバックアップ。

溥儀の後ろ盾になるという大義名分の下で中国大陸進出への足がかりをしっかりと作ることになりました。

かくして満州国が設立。

しかし1つ問題があって、溥儀には子供がいませんでした。

どうしても満州国の跡継ぎが必要と考えた日本陸軍は、溥儀の弟の溥傑(ふけつ)に日本人の女性を用意してお見合いの場を設定します。どこからどう見ても政略結婚でした。

弟・溥傑の奥さんには日本人女性を。

白羽の矢が立ったのは皇族の血を引く嵯峨 浩(さが ひろ)という女性でした。

こうして溥傑と浩という夫婦が誕生することになりました。

周囲は政略結婚と言いましたが、溥傑の高い人徳、浩の高貴な性格は相性がピッタリで絆の固い夫婦となります。やがて二人には慧生(えいせい)と嫮生(こせい)という娘が誕生することになりました。

しかし、幸せな日々も束の間。第二次世界大戦の戦火に巻き込まれた満州国。溥傑は囚われの身となり、浩と娘二人は命からがら日本に逃げ込んで帰国することに。

果たして夫の溥傑は、生きているのか、どうなのか。

それさえもわからず妻の浩は、一人で娘二人を育てながら日本で不安の日々を過ごすことになります。

夫・溥傑は果たして生きているのかどうなのか。
わからず不安に過ごす妻・浩の元に連絡が入ります。

ソビエトに捕らえられ捕虜となっていた溥傑は釈放され、中国に身を寄せている、との朗報。

しかし、まだ中国と日本は国交回復していない関係。夫に会いに行くこともできず、できるのは手紙でのやりとりのみ。それでも何もなかった不安の10数年を考えればその手紙だけでも幸せだったといいます。

そして。

いつしか、長女の慧生(えいせい)も筆を取り手紙が書ける年齢になっていました。日本語だけでなく、少しずつ中国語でも父への手紙を慧生は書くようになったと言います。

しかし、一体、いつになったら。

夫の溥傑に会うことができるのか。

そんな浩の元に、信じられない通達。

中国での溥傑との面会を許す、と。

後の中国の国家首席となる周恩来(しゅう おんらい)からの連絡でした。

一体、どうして?

驚くべきことに。

娘の慧生が。

父との手紙とのやりとりで勉強した中国語でもって。周恩来へ直々の手紙を書いていたのです。たとえ戦争を経験した両国であっても親子、家族の絆は変わるものではありません。父に会えるような、そんな国であって欲しい。

10代前半の少女が書いた手紙が。
周恩来を動かしたのです。

後にこの周恩来は来日して、日本の総理大臣、田中角栄と日中国交回復の調印を行うことになります。その調印式の模様は歴史の教科書にも載っていますが、あの大舞台が出来上がるまでにはこんなやりとりがあったのです。

かくして、溥傑と浩は、長く待った、待望の再会が出来ることになっていきます。

しかし、歴史とはなんと残酷なものなのでしょうか。

(さらにつづきです)

大学生になった娘の慧生が、突然の死去。

父との面会の直前の出来事でした。せっかくその再会の場を作ってくれた娘の死去に、どれほど溥傑と浩が悲しんだか。想像するに余りあります。原因は恋人との無理心中と言われています。

溥傑と浩の対面は。
慧生の遺骨を持った浩が。
北京の駅に降り立つというものでした。

まさかこんな対面になるとは。

涙が止まらない浩はひたすらに謝罪の言葉を。再会した夫の前で繰り返しだそうです。娘を守ることができなかった。

一方の溥傑は。
涙を見せることもなく。
妻を責めることもなく。

ニコッと笑って。

「さあ、浩さん。行きましょう。」

と。

浩と腕を組んだと言います。

後に浩は回想しています。

私たちの結婚は、政略結婚とか言われましたが、私たち夫婦二人は。お互いを心から信じ愛し合える良き夫婦であった、と。

そして、二人は日中友好を心から願っています。と。

その溥傑と浩は。

山口県下関市の中山神社の境内の中に、愛新覚羅神社を作ります。ここが日本と中国が最も近い神社なのだそうです。

そして、娘・慧生の遺骨をここに祀ることになりました。

その時に。

溥傑と浩の二人で、日中友好を願い、いくつかの木を植林しました。

(先日、私がお土産と受け取った落ち葉は、この木からの葉っぱ)

やがて、老衰で浩が亡くなり。
溥傑も北京で亡くなりました。

溥傑と浩の遺骨は。
慧生と共に。
この愛新覚羅神社に眠っています。

ちょうどオリンピックの時期。

日本と中国のあまり見たくないアンフェアな戦いのやり取りが報じられたりします。それを見ると、仕方ないことだと思いつつ。残念な気持ちにもなります。

そして。

2つの国が心から友好的であれることを願い、それに全身全霊を尽くした国境を超えた家族があったことを。今一度。知っておきたいと思います。

九州に行く三男に「途中の下関で下車して愛新覚羅神社にお参りしてこい」と言ってあったのに、素通りして福岡に入った模様です。(ため息)

おわり


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