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知性の磨き方 

荻生徂徠という有名な学者が江戸時代にいました。赤穂浪士の処罰を決定した人、徳川吉宗のブレーンetc様々な顔を持つ人ですが、この荻生徂徠の若い頃の成り立ちは大変に興味深いものがあります。早い話が荻生徂徠は家が地方で貧しく、学費は無いし、師もいない。

とことん独学の人だったというのです。

しかも貧しいからテキストもない。

手元にあるのは「大学読解」という林羅山が編纂した漢文の書物らしきものが一つ。ただそれを繰り返し繰り返し読んだ。これが荻生徂徠の学問のキャリアだというのです。

時代がめぐって。

今度はその荻生徂徠の書いた蘐園十筆と呼ばれる漢文をひたすらに書き取りしたのが幼少期の夏目漱石だったらしいのです。漱石は日本で有数の漢文の書き手にもなるわけですが、そのベースを作ったのは、荻生徂徠で、その荻生徂徠を作ったのは林羅山のたった一冊だったという。

荻生徂徠も漱石も、ある一つの古典をピンポイントでひたすらに読みまくった書きまくったというエピソード。これは大変に興味深いものだと思うのです。

どういうことかというと、私たちは情報化社会の中に生きていて、もう、見渡すばかり情報の渦。

本もありまくるし、情報もありまくる、もう何から読んでいいかわからない始末。

しかし、そのゼータクな情報を得ている私たちは。

果たして、徂徠や漱石の知性に至っているのか。こういうことはずっと考えさせられます。

決定的な古典を。
擦り切るまで読む。

ひょっとして私たちに必要な体験とはこれではないか。

情報量の多さに戸惑う時は。

いつもこのエピソードに立ち返りたいと思っている次第です。

孔子の「論語」
パスカルの「パンセ」
など

古典に立ち返る姿勢でありたいと思っています。

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