サブスクで簡単に音楽が聴けるのにわざわざCDやレコードで聴くことに意味があるのか?という疑問について。その答えはソシュールがくれた。
今更、音楽について語るなんて。
うざいし意味ない。
本気でそう思います。(思っていました。)
ネットでいくらでも音楽なんて聞けるし、それをわざわざレコードやCDを買って聞くなんて。無駄。馬鹿。無理。そう思うしそう思われても仕方がありません。
私は長らく音楽業界にいました。だからなおさらレコードを買って聞くなんてことは無駄、無意味であるという痛烈な批判を全身に浴びた人間でもありました。
音楽について。語るなんて。
もうそういうことはやっちゃいけないんだ。
そう本気で思いました。
自分が音楽が大好きで、いろいろレコード買ったり調べたりしたのは無意味で馬鹿なことだったんだ。本気でそう思いました。自分の暗黒の歴史だとも思いました。
しかし。
音楽の仕事から離れて10数年。
その後も自分はずっと哲学や思想の本を読み続けました。さすがにレコードは買う気になれませんでしたが。でも。まだ何か足りない。何かまだ残されている課題があるような気がする。そう思ってました。
ソシュールの言語学。
ヤコブソンの言語学。
ここ数年は難しいこの言語学というテーマに自分は取り組んでいます。
そしたら。
疑問が氷解してきたのです。
そして。
ある確信を得たのです。
自分がレコードやCDについて費やした時間は全く無駄ではなかった。それは大切なことで必要なことであった、と。それは例えて言うならロープウェーが整備された山をわざわざ歩いて登るようなことだと思います。ロープウェー乗ったらいいじゃん。別にわざわざ歩かなくても。無駄だよ、それ。CD、レコードとネットのサブスクの関係もまぁこんな感じだと思います。
ソシュール。
ソシュールが。
ボクに答えを教えてくれました。
登山して、山頂で見える風景は同じです。ロープウェーも歩きも。山頂に登ることが目的ならば同じです。しかしその両者には違いがある。何が違うのか。
山には。虫が住み。鳥が飛び。湧水が流れ。草木が生え。その草木は春夏秋冬その姿を変え。花は香りを発し、虫は鳴き。朝露もあれば夜露もあり。小動物の生活があって巣があって餌があり排泄がありそれがやがて新たな土となり生命となる。山は生きているはず。山は呼吸をしているはず。その山は何万年もの歴史を持ち断層を持ち。その断層が物語る光景がある。人が歩けるエリア、歩けないエリア。ひょっとしたら洞窟があるかもしれない。その洞窟の中には…etc
世界をより良く理解するのには細かい記号=シニフィアンが多ければ多いほど理解が進むとソシュールは言います。花は記号であり花そのものは意味を持たない。ソシュールはそう言います。しかしその記号はありとあらゆる方向に記号同士がくっついたり離れたりしながら連続して意味を構成していく。コードが同じものが結びつき本来なら意味を持たなかった花や虫といった記号がやがて言語として構成されていく。
たくさんの記号(言語構造)があればあるほど。世界への理解はより進む。
逆に少なければ。
木。
山。
という2〜3の記号しかなければその世界への理解は進まない。恣意性が封じられる。
たくさんのレコードに出会いたくさんの音楽に出会って、いろんなことを調べた自分は、いつしかたくさんの記号とコードを持っていたようなのです。
そして、それで異世界に進んだ時。
本来なら音楽にまつわる記号だったものは思いもしない結びつきを外界として行って新たなコードを生み出したようなのです。
ヒップホップを通じて構造主義を知り、ロックを通じて占星術を知り、ブルースやジャズを通じて哲学を知りました。
もし。
自分が。
サブスクで音楽を聞いてたら。
きっとこの本屋はやってなかったでしょう。
答えが30年してやっと見つかることだってあるのだと思いました。
また言語学については引き続き考えていきたいと思います。
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