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戦争オタクと世界平和


以下の文章は、せんだいメディアテークの企画展「ナラティブの修復」展で展示している、小森はるかさんと瀬尾夏美さんの作品≪11歳だったわたしは≫の作品の一部です。インタビューされた65人の中に、私(渡辺一馬)も取り上げてもらいました。私の語りをまとめてもらったので、許可を得て転載しています。

ナラティブの修復」展は1月9日(日)まで。1月8日(土)午後には、≪11歳だったわたしは≫の作家さんと直接話が出来るワークショップが行われます。ご興味ある方はぜひ。
11歳だったわたしは 上映とワークショップ


1978年に生まれて、11歳になったのは1989年です。いま、43歳です。

89年というと、一月に昭和天皇の崩御がありました。亡くなる前は毎日毎日、テレビのテロップで、天皇の下血何ミリリットル、そのため輸血は何ミリリットルとかってニュース速報で流れていたんですよ。実際に崩御されて、その後は半年くらい国が喪に服していたと思います。音楽イベントなんてありえない、お祭りも自粛。あの年の春はとても暗かったと記憶しています。長かった昭和という時代が終わってしまったから、昭和を振り返るような番組をたくさんやってて、そうすると戦争の特集も多かったですし。

ぼくの十代は天皇が亡くなって、その後バブル崩壊と続くので、めちゃくちゃですよね。ぼくの感覚だと、あの頃からずっと日本は鬱々としていて、元気が取り戻せないでいる感じがします。


個人のことでいうと、小学校四年生の時はいじめられっ子で友だちがいなくて、結構しんどい時期でした。でも、無遅刻無欠席なんですよ。田舎には不登校という選択肢がないし、歯を食いしばってでも行くしかなかった。ぼく、その頃の将来の夢が政治家で、アメリカ大統領になることだったんです。みんなが笑っている世界の方がいいなと思って、なんとかして世界平和を達成したかった。当時そのための方法って、権力者になるか、金持ちになるか、科学者になるかの三択だと思っていたので、じゃあぼくは権力を持とう、一番強いのはアメリカ大統領だ! って思ったんですね。

自分自身の境遇が辛かったから、おそらくその代償行為として、自分よりもっと大変な境遇にある人のことを考えてたんです。自分はいじめられている。けれど、家に帰れば温かいごはんがあって、おじいちゃんもおばあちゃんもいて、大事にしてくれる。対して、アフリカの子どもたちは両親を殺されて、帰る家もなく、水ばかり飲んで腹が膨れている。当時、テレビをつけると黒柳徹子さんのアフリカの難民支援の番組をやっていて、辛くなってチャンネルを変えると、アメリカのホームドラマで、子どもたちがクリスマスのおもちゃを楽しそうに投げ合っていたりしていて。そのギャップが衝撃的で、一種のトラウマになっています。子ども心に、こんなのはおかしいと思っていました。でも、周りにそんな風に考えている人は居なさそうだし、だったら自分が社会を変えるしかないと。


五、六年生になると、ぼくは体格が大きくなったので、いじめっ子と闘えるようになりました。さらに知恵がついてきたのもあって、口喧嘩でも負けなくなってきた。それからは学級委員なんかもやるようになり、学校生活も変わっていきましたね。

それまでのぼくって、人が聞いているかなんて関係なく一方的に喋って、コミュニケーションを取る気がなかったんです。発達障害の特性があったんですよね。低学年の頃なんか、誰も聞いてないのに、リニアモーターカーって知ってる!ここがすごいんだ! ってひたすら喋りつづけて、同級生に、うるさい、あっち行ってろ! って言われたりして。友だちがいなくてずっと百科事典を読んでるもんだから、知識はたくさんあった。それでも、五年生頃になってやっと、普通の会話もするようになりました。

そもそもなんでこうなっているんだろう、なんでこうしなきゃいけないんだろうっていうことを考えちゃう人だったんです。それで、中学校に入ると校則がきつくなってくるので、それに引っかかってしまう。なんでヘアゴムは黒じゃなきゃいけないのかって考えて、問うてしまうんです。

そのおかげで、中学、高校では、ルールを変えたり、作っていったりすることの楽しみを覚えました。たとえば生徒会活動の中で、あたらしいルールを提案して、いいねってなると、学校生活が変わっていく。そういうことを何度か経験していたので、大学に入って、社会のおかしなところを指摘して変えていく不良な大人たちに出会ったときには、やっぱりこれだ! と思いました。そして、NPOの道に入っていくんですね。


一方でぼくは、武器や兵器が好きで、軍艦のプラモデルをたくさんつくっている子どもでした。駆逐艦や巡洋艦を自宅のテーブルいっぱいに並べて、連合艦隊だ! かっこいい! って楽しんでたんです。友だちにもそういうのが好きなやつがいて、そいつは大人が読むような本格的な軍艦雑誌を読んでいた。それでぼくらは、戦争の話ばかりしていました。

低学年の頃から、ガンダムや宇宙戦艦ヤマトのアニメも見てるから、やっぱり兵器には憧れるんですよ。そこへ、日本の戦艦大和が世界最大だったって知ったりすると、男の子心はマックスに盛り上がる。そこから、なぜ日本は戦争に負けたんだろうって考えるようになって、高学年になると歴史に関心を持つようになり、小説なんかにも手を出しはじめる。当時はめちゃくちゃオタクですね。

それに、あの頃は戦争もののゲームってたくさんあって、『信長の野望』や『三国志』は兵を集めて敵を倒していく歴史シミュレーションゲーム。『ドラクエ3』が出たのが四年生の頃で、あれはクリアするにはとにかく時間をかけるしかないから、寝たら負けだと思って徹夜してましたね。

いま思えば、世界平和を希求する気持ちと捩れがあるとも言えます。ゲームとして戦争を楽しむ自分がいて、本当の戦争で苦しんでいる人たちがいて。ただ、戦争への関心が加害性などの問題につながっていくのは、もっと先の話ですね。

うちの祖父は大正生まれだったので、しっかり戦争に参加している世代なんです。中国に出征して、十五人いた小隊のうちふたりしか生きて帰れなかった。やっとのことで帰ってきてもPTSDになっていて、祖母からは、戦後は夫が役に立たなかったから、わたしがなんとか立て直したんだ、というような話も聞きました。

ぼくが中学校の頃、90年にはイラク・クエート侵攻もあり、軍と軍が直接戦う形の戦争も記憶しています。振り返れば、生活のあちこちに、いろんな形で戦争があった時代だったと思います。すくなくとも、いまよりも戦争が身近にありましたね。


いまぼくは、うすぼんやりと全体が明るい社会、というものをつくりたいと考えています。それは、戦争のように白黒つけるやり方で出来る社会ではないんだと思う。光り輝く場所を作れば、その反対側に暗い場所が出来る。つまり、誰かの視点で完璧な社会を作ろうとすると、そこに当てはまらない人は排除されてしまうんですよね。

だからそうではなくて、みんなが自分の手元が見えていて、お互いのことも認識できているような、うすぼんやりと明るい社会がいいんじゃないかと。みんながちょっとずつ頑張ることで、救われる人たちがいる。それが連鎖していくような社会です。このイメージは思考実験として、大学生の頃から持っていたんですけど、震災後の一年間くらいは本当にそういう社会があったと思っていて、やっぱりこれなんだなって確信しましたね。これから、あのときの社会をどうやってまちの仕組みに落としていくか。考えていきたいですね。


引用ここまで。

私の他にも65人の「11歳が見てきた景色」が集まっています。それこそ90代から10代まで。タイトルだけですが、ご紹介。内容はぜひ展示をご覧下さい。他人の11歳を見ながら、自分の11歳を振り返ってみてはいかがでしょうか?

『11歳だったわたしは』聞き書きテキストのタイトルリスト
*生まれ年/年齢/タイトル
1929年/92歳/戦争と、貧富の差
1934年/87歳/八月十五日に壊された家
1936年/85歳/忍者だったお兄さん、そしてインターネット
1937年/84歳/松林のコンビーフ
1942年/79歳/鉄砲屋の長男として生まれて
1944年/77歳/助け合わなきゃ生きていけない
1947年/74歳/働きづめの小学生
1948年/73歳/祖母の懐で息を吹き返した少年
1951年/70歳/逆上がりができれば、次につながる
1951年/70歳/港町と口寄せ
1952年/69歳/「わたしがママよ」に憧れて
1952年/69歳/時代の変わり目と、創造性
1953年/68歳/イナゴ取り、東京オリンピック、新しい家
1953年/68歳/雪山を越えると、闘争の時代があった
1955年/66歳/世界を変える『悪魔くん』
1956年/65歳/灰色の世界と無数の自画像
1958年/63歳/八畳間にいた父
1959年/62歳/母とは違う時代を生きる
1960年/61歳/聴こえない両親と聴こえるわたし
1962年/59歳/船の汽笛、姉の声
1963年/58歳/まちの喧騒と母親
1965年/56歳/大人が傘を差し出してくれるまち
1966年/55歳/浜に出来た親戚
1967年/54歳/日々は、ひかっている
1968年/53歳/へこたれない父と、へこたれないわたし
1969年/52歳/カレンダーから生まれた古本屋
1970年/51歳/音楽、音楽、音楽
1971年/50歳/母とそっくりな娘
1972年/49歳/地割れを語る母の声
1973年/48歳/家族を繕う
1974年/47歳/とある学級崩壊物語
1975年/46歳/居場所は学校の外に
1976年/45歳/雪のなかのふるさと
1977年/44歳/余生なう
1978年/43歳/戦争オタクと世界平和
1979年/42歳/どうやって聞けばいいんだろう
1981年/40歳/団地と、紙上のRPG
1982年/39歳/雪国の実家にはお母さんがいる
1983年/38歳/ニュータウンから限界集落
1984年/37歳/95年のうしろめたさ
1985年/36歳/気になる人、好きな人
1985年/36歳/虹色のしっぽを持つトカゲ
1986年/35歳/サッカー少年、城を築く
1988年/33歳/ミーハー少女、保育士になる
1989年/32歳/やりたくないことやってる暇はない
1990年/31歳/異なる信仰を持つ父と母
1991年/30歳/釣り船屋と社会教育とIT革命
1992年/29歳/二世帯住宅のひとりっ子
1993年/28歳/妖怪探し、居場所づくり
1994年/27歳/フィリピンのクリスマス、ふたつのバービー人形
1995年/26歳/ぱっとひらけた世界で、走る
1996年/25歳/地元は陸前高田です
1997年/24歳/頼られがちな女の子
1998年/23歳/学級崩壊から鬼ごっこ
1999年/22歳/地元愛が枷になる
2000年/21歳/もう一生会わない子もいるのかな
2001年/20歳/被災したまちへ引っ越した
2002年/19歳/津波から逃れて、このまちに来ました
2003年/18歳/玄米のひみつ
2004年/17歳/旅と小説
2005年/16歳/好きな服を着て、憧れの場所へ
2006年/15歳/生徒会長のバランス感覚
2008年/13歳/思っていることは言葉にしよう
2009年/12歳/もっとはやく走りたい
2010年/11歳/大切なこと三つ

若者が挑戦し続けられる環境をづくりをしている渡辺一馬です。よく白鵬関と間違われますが、一度もまわしを締めたことがありません。