半分こした消しゴム

こんにちは。
今日は床を水拭きしました、カラスです。

ところで、
着地点がどこにも無いので書くか迷ったんですが
生まれてから33年の間に
夭逝していく友達が多いです。

中学生の時に
病気で2人の友達が亡くなりました。
私が初めて参加したお葬式は、
ものすごく年上の
例えば、ひいおじいちゃんとか
親戚のおばさんとかではなく、
14歳の友達のでした。
人生で2回目のお葬式も、友達のでした。
棺はこんなに深いのかと驚いて、
変わり果ててしまった友達の姿は
しばらく頭から離れなくなりました。
何より、子供を亡くしたお父さんとお母さんは
あんな風に落ち込んでしまうのかと
呆然としてしまいました。

大学を卒業したあと
高校時代の友達がまた2人、事故と病気で亡くなりました。

事故で亡くなった友達は、
その奥さんも友達だったので
もう見ていられなかった。

病気で亡くなった友達は、
そのお葬式で
まだ小さい子供がいることを知りました。

とっても親しかったわけではないので
その子との思い出は
授業や体育祭、放課後みたいな
日常の風景がほとんどなんだけど

すごく覚えているのは
私が消しゴムを忘れてしまった日、
後ろの席だったその友達が
自分の消しゴムを定規で半分に切って
「今日ミニテストあるやろ」
と渡してくれたことがあったんですけど、
そんな子でした。

お葬式では
その子の母親が、その子の息子を抱っこして
ずっと泣いていました。
泣きながらも
あんなに愛おしい目で棺を見下ろす人を
これまで見たことがなく、
本当に苦しい空間でした。
幼い男の子は自分の母の死に
わかることも、わからないこともあるようで
棺の中を不思議な顔でじっとみていました。
目元が瓜二つで、あんまりだと思った。
あの子はいくつになったのかな。

27歳の時、
ものすごく慕っていた大学の時の先輩が
長い闘病の末、病気で亡くなった。
やっぱりすべてがしんどかった。
あれからもう何年も経つけど
いまだに受け入れられないままです。
よりによってなんで
って思う、素晴らしい人で
まだまだ話したいことがたくさんあったのに。

不意におとずれるのはもちろん、
いくら心積もりしていたとしても
死は慣れない。
死なない人なんかどこにもいないのに、
誰かに死なれるのは、ものすごくつらい。
これから先、
そのひとつひとつを越えていかなくてはいけないのか
と途方にくれてしまう。

今の世の中は特に
いつもより、死が少しだけ自分の近くにある気がして
それを思わずにいられない。

大切な人を失うかもしれない
信じられないことが起こるかもしれない
もしかしたら自分かもしれない
いつもどこかそんな恐怖にビクビクしてしまって
気が張ってしまって
だからこんなに重たいんだ。

とても月並みな感想なのですが、
親しい人たちの死はいつも
私は生きてる
っていうことを、痛切に教えてくれました。
喪失感と同じくらいの強度と引力で
生きてる事実が対峙してくる。
淡々と流れる平凡な今日、明日、明後日の中で
存在と喪失を一緒に受け止めていくような。

今日を生きたこと
これは、ものすごく特別なんだよね。
だからって単純に
生は幸福だとポジティブ変換することはできないんだけれど。

存在している間の
自分の生き方をひたすら考える日々です。
この先もまだしばらく続くって
傲慢にも、前提にしながらですが。

それでは、今日はこのへんで。
さよならコピー

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