劇薬

どうしようもない寂しさに襲われて消えてしまいたくなるときがある。

どこにも愛してくれる人なんて居なくて1人の時間が永遠に続くという悲観的な想像が頭をよぎる。

生きる意味を、ある人は「あなたがいるから」と恋人に伝え、ある人は「アナタのために生きてきた」と歌う。

仕事、恋人、家族、宗教、何であれ大抵、幸せな人には生きる理由があると思う。僕にはそれがない。

今この瞬間にも、生きる理由を見つけたあの人は幸せな時間を過ごし、周りの人も幸せになるために歩んでいる。暗い部屋の中ベッドから出ることすらできない僕は、彼らを指咥えて眺めながら羨むことしかできない。

今この世界に自分以上にクズなやつはいないと思う。根拠はない。直感的にそう思う。みんな「人間出来てない」という言葉を使いたがるけど、僕よりよっぽど出来てると思う。

もう何をやっても遅い気がする。何もかもがうまくいかない現実を目の前に、立ちすくむことしかできない。能力がないというより進む気力がない。体の中に潜んでいた全ネガティブな感情が、前を向くことを許してくれない。

なんだかもう、根本的に疲れてるのかもしれない。


愛に無遠慮に依存していた。一年前、ある女性から「好き」と伝えられた。僕はそれに応えることすらしなかった。毎日通話で話していることが当たり前だったこともあってか「俺を照れさせて楽しむな」と、返事すらめんどくさがった。その時は愛なんて無くても生きていけると思っていたのだろう。傲慢だった。

恋愛は植物に似ていると思う。水をやらなければ枯れてしまうように、愛の過不足が起これば関係がひび割れる。

別の男性と付き合い始めて疎遠になったとき、その女性の存在の大きさに気づき、もう居ないことへの絶望から一気に虚無感に覆い尽くされた。

男として見られてなくてこっぴどく振られるだけの恋愛ならまだ良かった。むしろそっちの方が良い。因果が積もりに積もってどうしようもない形で返ってくるくらいなら「あなたには私と釣り合うほどの価値はないよ」と宣告される方が、諦めがつく点ましだ。手に入るものの価値に気付かずに逃してしまう奴が1番のバカだと思う。

今まで彼女と別れたとき、好きな人に振られたときに苦しいと感じたことはなかった。失恋して泣いたのも吐いたのも今回がはじめてだ。はじめて人を好きになったのだ。今までの恋愛がいかにお遊びだったか思い知らされた。

執着から逃れて楽になりたい自分とまだ彼女のことを好きでいたい自分が交錯している。この矛盾した2人の僕が精神をぐちゃぐちゃにする。もう遅いのだ。好きな気持ちに気づくのが遅かった。そもそも「好き」という感情が分からなかった。こんなに苦しいものだと知らなかった。


僕はどう生きれば良いのだろう。本能のままに自分の欲求に従い続けることはもう試した。何をやっても迫り来る鬱の速度には敵わない。生きたいとは思わないが、死にたいとも思わない。

たまに「死ぬ」と言ったら、「自殺したら地獄に落ちるぞ」や「生きたくても生きられない人に失礼だ」と言う人がいるが、僕はそうは思わない。

生きるものにも死ぬものにも等しく価値はあると思う。生きていなければ、なんてことはない。冷静に考えて人生は長すぎる。感情が膨張して収束する人生に振り回され続けるのに疲弊してしまうなんて当然だ。

「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。」

と山月記の中で述べた中島敦が三十歳そこらで自殺してしまったのはあまりに皮肉めいている。


このまま愛されないくらいなら死んでしまっても良い。でも、それでは何か勿体無い気がする。もっとこの感情を楽しみたい。ジェットコースターのように上下する感情とまだ戦っていたい。苦しい。抗っても勝てない。苦しい。でも楽しい。これが刺激的な時間なのだと思う。

どこか希望がないと思う一方で、世の中に踊らされたい自分がいる。僕はまだ、、、今は、幸せになってはダメだと思う。もっと自分と向き合いたい。自分に納得するまで世の中に対して怒っていたい。欲を醸成したい。どんなに禁断の恋だろうと本気で好きになった人と結ばれたい。だからまだ死ぬべきじゃない。死ぬならこの苦しみに、失恋に飽きて何も感じなくなってからでも遅くはない。もし人生に希望を見出せなかったら、もし誰からも愛されない人生になったなら、そのときは、、、死ねば良いだけの話だろう。

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