「推しは推せる時に推せ」が嫌い

「推しは推せる時に推せ」が嫌い。説明するのも難しいけど、本当に嫌い。何かを好きになる事ってタイミング次第で、それはあんまり自分では関与できないところにあって、対象が同じでも見た部分や瞬間が違うだけでそれに惹かれるかどうかは変わるし、それを良いと思える自分の心のピントと対象の状態が合致していないといけない。そもそもその存在に気付くことが出来るかというのはもはや巡り合わせで、それの良さに気付いた時にはその対象がもう活動していない、それどころかもう亡くなっていたりする場合も当然ある。そういう経験が私には何度かあって、その時私に芽生えた好きという感情は確かに本物なのだけれど、「推しは推せる時に推せ」という言葉はそれを否定しているように感じてしまう。ある種の被害妄想に近いのかもしれないが、無理矢理「泣きっ面に蜂」みたいな感情にさせられるような気持ちになる。後悔は心の中に自然と芽生えるものであって、他人から植え付けられるものじゃない。なのに、この言葉は他人に後悔を植え付けながら、さも正しく振る舞っているように錯覚して発されている。早逝したミュージシャンの動画に現れる「神様は綺麗な花を早く摘みたがる」みたいなゲボカスゴミコメントも同じくらい嫌いなのだけれど、こういう事を粋っぽい感じで言う文化そろそろ無くなんねーかな。とかく私は「推しは推せる時に推せ」が嫌いだってことです。

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