教誨されたい

私には長い文章が書けない
過去掲

小さい頃は神様がいた。それはしさいさんが話すイエス様のことだった。故郷から遠く離れた物悲しい青森で、遠い昔寺山修司も通った幼稚園に通っていた。毎日主の祈りを唱えた。無垢だったわたしは聖劇で序幕の天使の役を与えられた。卒園してもずっと、朝起きたときと眠る前には主の祈りを心の中で唱えていた、けいけんなくりすちゃんであった。

初めて罪を犯したのは小学二年生のとき。わたしは優しい子だったから、通常級に入れられていた知的障害のある男子児童の世話役を請け負っていた。席替えしてもいつも隣。スキーの時間も彼の乗った重い橇を引くサンタだった。キティちゃんの巾着を破かれたり、授業も妨害されたり、ノートをとってあげなきゃいけなかったり、何かと忙しい日々だった。ある日、彼の私物のお箸を、日頃の恨みつらみゆえに鉛筆削りで削ってしまった。事が発覚してもあまり叱られはしなかったけど、お世話係は続いた。償いのために。思い出したのは幼稚園でやった聖劇の主役のイエスは知的障害のある男児だったこと。清らかなイエスは酷く削られた箸で給食を食べ続けていた。それからも主の祈りをこっそり唱えることは続いた。

故郷の東京に戻ってきた小学二年生の冬は暖かかった。それからわたしは毎日の通学路は十字架を眺めながら歩いていた。家からすぐにミッションスクールがあったのだ。赤臙脂黄色紺黒シルバーグレーのタイをそれぞれ学年順に結んだセーラー服姿の少女たちと、ちょうどすれ違うように小学校へ向かった。主の祈りは忘れなかった。でも、その頃気持ちいいことを見つけた。罪とは気付かない自涜の過ちは甘くだるいものだった。

小学校四年の秋、ある曇りの土曜日に池袋の西武デパートへ母と妹と遊びに行った。屋上でレモネードを飲み、山手線に乗って帰った。普段は食べない豪華なお惣菜を用意しているとき、地面が揺れた。遠くで起きた大きな地震だった。私は必死に主の祈りを唱え続けたけれど、余震は夜まで止むことがなかった。それからしばらくして、被災地の車内に閉じ込められた赤ちゃんだけが助かったニュースを聞いた。彼はイエスだと確信した。通学路で十字架を眺めるたび、その赤ちゃんに思いを馳せていた。でもその頃には、自涜の罪は欲望に及んで、地震雲を心配して帰り道を送ってくれた同級生の男児を汚した。

受験の時期が訪れた。私は当然のように、近所のミッションスクールを受験するつもりだった。赤いセーラータイを身につける将来へ自己愛を募らせていた。UFOの絵を男児と描きながら、いつかそのまっさらなセーラー服とどこかの学ラン姿の彼と交わることを胸にしていた。塾の先生にこっそり「隠れキリシタン」であることを伝えたら、ミッションスクールの過去問をプレゼントしてもらった。でも、ほんの少しだけ偏差値が高かったばかりに、別の学校を受験して、受かってしまった。男児とはお別れ。それに彼の神は池田という男であった。乙女の欲望は絶たれた。

そこはお堀端の小さな小さな女学校だった。隣接した大学のビル校舎に日照権を侵害された古臭い校舎には十字架は無かった。入学式の日、誠と操を歌う声が聞こえた。担任と部活の顧問が唱えるのは日本国憲法前文であった。涙ぐみながら読むその姿にもらい泣きしてしまった幼さ。いつしか私は主の祈りを忘れ、新聞部で平和を祈り続けた。誠と操を胸に。原爆ドームの前ピースサインで記念写真を撮る同級生を糾弾したコラムで顧問に褒められた。児童虐待を無くしたい思いを書いた作文で表彰された。当事者の母の気持ちも知らずに。書き続けることが祈りだと思っていた。

最初に操を無くした。次に誠も無くなっていった。卒業する頃には神様はいなかった。一方妹は私の憧れであった十字架の学校に通い、ハンドベルで聖歌を奏でていた。父も中高、ミッションスクールであったから、時折食卓で聖書の話をしていた。あんなに信仰深かった私だったのに、もうついていけなくなっていた。私は罪や過ちを犯し続けた。妹は、聖劇のイエスのような人々を支える仕事に就いた。

神様を探して何人もの男と寝た。神であるはずの男たちを冒涜した。大罪人。死刑かも。日本では死刑囚でも牧師さんや神父さんと面会して話せることを知った。この罪は赦されますか。いま、教誨されたい。


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