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メタセコイヤ

中学二年生まで住んでいた家の庭には、ゆうに三階分はある高さのメタセコイヤの木が一本植えられていた。国道沿いの田んぼの向こうにすっくとたつメタセコイヤは、我が家の目印だった。

メタセコイヤの傍には櫨の木があり、葉に触れるとかぶれるから、とその二本の木には近づけなかった。

幼い頃に大きな木を見上げて育ったからか、大木のそばにいると心が落ち着く。

「おおきな木」という絵本がある。

小さな頃から見守って、いや共に成長した男の子は、木の恵みを次々ともらって、最後には切り株だけになった木に、年老いて背中の曲がった姿で腰掛ける。

それを木は幸せに思うのだが、若い時に読んだ私は、その男性が自分勝手でどこかゆるせなかった。もちろん与え尽くす木の愛の豊かさには心打たれる、のだが。自分はこの男のようではない、と思いたかったのだろう。

しかし人生も後半になると、厚意を受けるばかりでなんの恩返しもできないで2度と会えなくなったり、お返ししようにもすべがなかったりする自分に気づかされた。

あらゆる恵みを享受していたことを さも当然のように受け取り続けていたのではないか、と。

だからだろうか、最近はできるなら自分の持てるものを、時間も経験を、財産はないので心や手足を誰かのために使っていきたい、と思う。

たとえばコロナで命を失った時、やっておけば良かった、と後悔することのないように。

大きな木を見上げると素直な気持ちになれる。こうしてイメージするだけでも心の整理ができるのが不思議だ。

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