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改めて「書くこと」について考える

昨日で、noteの投稿が10日続いたらしい。今日が11日目ということになる。

noteの登録そのものは1年以上前に済ませていたが、実際に書いてみたのは8月9日だった。その最初の記事がこれだ。

それから間隔があいたり、一つの記事を数日かけて書いたりしていたので、連続投稿というものにはならなかった。今はふらりさん「ひみつ文庫」企画に参加していることで、何だかんだと10日以上続けてここに書いている。ちなみに、ふらりさんの企画はこちら(ふらりさん、ありがとうございます)。

続けて書いてみて、やはり「書くことが好き」なんだと改めて思う。生業的なものとは異なり、評価や他人に読まれることを意識せずに書くというのは楽しい(もちろん、どなたかに読んで頂けることは、また別種の嬉しさがある)。

Twitterは140字という短さなので、思ったことを瞬間的に文字にするために使うことが多い。Instagramは投稿より、圧倒的に閲覧するために開いている。そもそも、スマートフォンでちまちま文字を打つのが好きではないので、インスタへの投稿は足が遠のきがちだ。私が文字を打つのは足ではないから、手が遠のくと言う方が正しいか。noteもスマートフォンではなく、すべてパソコンで開いて作業をしている。


話題が豊富なわけでもなければ、文才があるわけでもない。一定、文章を書けるという自信はあるが、それは生業的な積み重ねに因るものが大きく特別なことではない。思っていることや考えたことを溜めると自分の内側で悶々とする質なので、それなら外に出してしまう方がスッキリする。

また、同じ「書く」であり「続ける」であっても、日記は不向きだと直観的に知っている気がする。日記は、感情を抜きにした事実(e. g. その日の出来事や食べたもの)だけを綴るとしても、そのベクトルがすべて自分に向く類のものだと思う。ゆえに秘密性は高まるが、自分で自分の内側に刃を向けることになるであろうと容易に想像できるため、私にはしんどい(断るまでもないが、すべての日記や書き手が、そうだと言ってるわけでは全くない)。毎日書くことができる人、5年日記や10年日記を続けられる人には、尊敬の念しかない。


思うことや考えていることを(文字にして)表に出したくても出せないという人に対して「書けばいいのに」と思ってしまうのだが、それは”書ける側”の傲慢なのだろうし、同時に「書く」ことはある種の暴力(ないし権力の行使)だという自戒がある。SNS上の匿名による誹謗中傷(時に罵詈雑言)はもちろん暴力だが、ここでその話は措く。そうではなく、何かを「書くこと」それ自体が暴力だという話である。

たとえば、このnote一つとっても。創作でも感想でも"noteの書き方"的なものでも内容は、何でもいい。とにかく、ここに何かを「書ける」人は、私も含めて「書けない」人の声を消している(奪っている)ということも考えられる。

『他人に読まれる/読んでもらえるnote』のような記事がある。それが良い悪いということではない。ただ、それは「他の人に読んでもらえるnote」を書ける人の主張である。そこでは、ただ自分のために書く人や、そのように書かない/書けない人の声は「ないもの」になる。それは一つの暴力だと、私は考えている。


先日、小説『オーバーヒート』の著者へのインタビューを新聞で読んだ。私は作品を直接読んでもいないし、インタビュー記事の内容を正確に記憶しているわけでもない。だが、いわゆるセクシュアルマイノリティと呼ばれる人々が”普通”として受け入れられる昨今の状況に対し、小説の主人公の抱く違和感が印象的だった。

セクシュアルマイノリティを普通だと思ってもらいたがるのは、マジョリティの仲間に入れてくれという懇願にほかならない(記事の文言通りではないが、意味は変えていない)。※


私個人としては、小説の主人公と(ひいては著者と)同意見だが、そう書ける(言える)のはある種の”強み”なのかもしれない。個人的にはマジョリティの中に自分から入ることも、入れられることも御免だと思っている。だが、ずっとそこにいるかどうかは措くとして、一旦はマジョリティの中に入らざるを得ない人や、そう「懇願する」人もいるだろう。

『オーバーヒート』の著者は、当然そのような人々の存在に留意した上で、そう書いている(主人公にそう言わせている)はずである。また、そのような書き表し方が”暴力的”であることも、確実に承知しているだろう。


「書く」というのは、そういうことである。書いた内容や使用した言葉で人を傷つけることだけが暴力なのではない。「書くという行為」そのものが暴力的な構造の中で行われるものなのだと思う。一つは、書けない/書かない人をそこから消してしまうこと。もう一つは、書かれた内容に心情的には賛同しているが、現実としてそうなれない人を苦しめるということ。

私は「書くこと」を半ば生業にしていることもあり、そこに付随する暴力性や加害性からは逃れられない。それらと無関係に「書ける」と思うことは、傲慢に過ぎない。何かしらを書く以上、そこには必ず力関係が生じる。しかも、その力を行使する側に自分がいることになる。そのことを心に留めながら、今後もnoteに綴っていきたい。



参照

※LGBTは「普通」なのか? 千葉雅也さんが書く、ゲイの美学(2021.9.10 取得)



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