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『ダブル・ファンタジー』感想――すべては幻想なのか

村山由佳氏の『ダブル・ファンタジー』(上下)一度目を読み終わった。

先に、平積みの誘惑に負けて買ったのは『ミルク・アンド・ハニー』だった。いつもの癖で少しだけ先に解説を読むと、どうやら『ミルク・アンド・ハニー』の前に別の物語があるらしいということを知った。ゆえに『ミルク』より、後から購入した『ダブル・ファンタジー』を先に読んだという経緯がある。


誰に言い訳するわけでもないが、私は村山由佳氏が苦手だという先入観があった。中学生だか高校生の頃だか覚えていないが、同氏の「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズを読んだ。これがまったく私には合わなかったのである。もともと、女性作家の作品は何故だか悉く読めないという変な癖があるため、滅多に手に取らない。それに「コーヒー」シリーズは輪をかけてしまったようで(途中で挫折した)、村山氏の作品は素通りするようになっていた。

『ミルク・アンド・ハニー』も、辻村深月氏の解説がなければ買わなかっただろうと思う(私は、本当に解説重視派である)。


一度通読しただけの感想を一言で表すならば、《高遠奈津が分からない》ということになる。この「分からない」という感覚は「理解できない」というそれとは、微妙に違う気がする。

夫 省吾の支配は明らかにDVそのものだとしか思えないし、仕事を辞めていわゆる主夫をしているが、端的に言えばヒモ同然である。経済力の有無で人間を判断するのは唾棄したくなるし、主夫業も労働(ハンナ・アーレントの概念を指す)であるから不可欠なものだ。(アーレント的な)仕事と労働のあいだに優劣はない。別に、省吾に対して労働だけしていろとは思わない。だが、奈津を支配することでしか自分の「仕事」ができないなら、それはクズだと言うよりほかないと思う。奈津が家を出るまでの省吾の言動には、本当にイライラしたし、DVの共存関係に陥るとはこういうことなのかと考えていた。活字だけで、これほど読み手の苛立ちや(省吾に対する)腹立たしさを煽ることができるとは…。

省吾の支配から逃れる力を得るためかのように、奈津は志澤一狼太にのめり込んでいく(本筋から外れるが、村山由佳氏は、なぜ《いちろうた》という呼びづらい芸名/ペンネームを付けたのだろう。以下、志澤と略す)。

奈津と志澤のメールのやりとりが最もゾクゾクするものだった。セックスの行為そのものの描写より、こちらの方がよほど官能的だと感じた。私自身の心の奥にあるものを引きずり出して、打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。

ごめんなさい。気がつくと、長々とつまらない愚痴をこぼしてしまっていますね。公演の御準備その他で、さぞかしお忙しいことと思います。どうぞ御放念下さいますように(上巻 p. 63)。
『お返事を期待しているのではなく、』手を止めた。カーソルを少し戻して書き直す。『お返事を期待していないと言えば嘘になりますが、』再び手を止める。考えたものの、結局、全部を削除し、頭から書き直した(上巻 p. 73)。

いくら「御放念下さい」と書いてみても、「お返事を期待していないと言えば嘘になりますが」と書いてみても、奈津の本音は透けている。本当に「御放念」されたら心に穴が開くし、今すぐの「お返事を期待して」いるのだ。この部分の奈津は、まるで私そのものだ。

その後、奈津の「相談」と称した長い長い、打ち明けメールが綴られるが(上巻 pp. 94-97, 101-109)書くにも読むにも、腹をくくらなければならない内容だ。ここまで綴っている時点で、奈津はすでにのっぴきならない段階まで志澤にのめり込み、依存している。

解説にもあるように、奈津は《関係依存》と《精神的依存》が激しい(下巻p. 291)。この《精神的依存》が身につまされる。私も、奈津と同じようにある人にずっと精神的に依存しているからである。いつもそんなことを考えているわけではない。だが、彼女の ――特に、志澤に対する――依存の仕方を読んでいると、私も同じだとまざまざと知ることになるのだ。

セックスの最中、奈津は志澤から「愛してる」と告げることを強要される。根負けした奈津が『実際にそう口にだしたとたん、奈津はそれが、本当はどれほど彼に伝えたい言葉だったかを思い知った』(上巻 p. 142)。

私には、これが奈津の本心のように思えてならない。その後、志澤に手酷い目に遭わされ「デリバリーくん」を含め複数の男と寝て依存してゆくが、奈津が本当に《愛して》いるのは、志澤一人のような気がしてならないのである。上巻を締めくくる最後の一行に『男なら誰でもいいのか、あんたは。』とあるが(p. 301)、実際を別にすれば本音の深いところでは「男なら誰でもいい」わけがないと感じる(もちろん、奈津の好みという問題ではなく)。

(終わった)と、奈津は思った。志澤とのことはとっくにケリを付けたつもりでいたけれど、頭と軀の中にまだわずかに彼の支配が残っていた――それが、今ようやく、ほんとうに終わったのだと思った。惜しくも、何ともなかった(下巻 pp. 264-265)。

このセンテンスを額面通りに受け取らない私が、ひねくれているのだろうか。

なんて、さびしい。どこまでも自由であるとは、こんなにもさびしいことだったのか――。(下巻 p. 286)

志澤との後の奈津の『浮気』は、すべて寂しさを埋めるためのものだ。おそらく大林を含め、他の誰と寝ても奈津が「満たされない」のは、志澤を愛しているからではないのか。

地の文の最初の方に《高遠奈津が分からない》と書いたのは、そういうことである。すなわち、奈津は志澤以外の男を「愛してはいない」し、奈津を「満たせる」男は志澤だけである。それにもかかわらず、なぜ彼女は他の男をとっかえひっかえするのか。それが私には《分からない》のである。

奈津にとって、志澤以外の男は、すべからく幻想なのだと思う。それとも、志澤もまた幻想(ファンタジー)なのか。

それゆえ《二つの幻想》=《ダブル・ファンタジー》なのだろうか。



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