社会がどういう人を救うべきか

いわんこさんのnote記事に触発されたのでつらつらと思うところを書いてみました。

この質問とnote記事を読んで思ったのが、「救われるべきハンディキャップを持った人(被救済者)」の範囲と「どのような場で誰がどの程度まで救うべきか」について社会的な合意を形成していくのって今の日本ではかなり難しいのではということ。

僕が子供の頃には存在しなかったバリアフリーという概念が広く行きわたっている現在、今回のnoteや質問のきっかけとなった車椅子の人など、生まれついての身体障がいや精神障がいを持つ人達について、我々健常者と同じように不自由なく生活できるよう社会全体として救済することについて、本来であれば大きな異論は生まれないはずである。にも拘わらず(当該話題の人の言動やバックグラウンド、動機等が異論の原因となっている面もあるにせよ)、ネットの議論でここまで賛否が分かれてしまっているのはなぜなのか。

身も蓋もない結論になるが、20年以上に及ぶ経済の低迷と急速に進む少子高齢化をはじめとする負の社会的・経済的変化の影響によって社会全体に漂う将来への閉塞感、そうした閉塞感がもたらす暗い空気が我々一人一人の内面において、自らの負担と引き換えに皆で「弱者」を救済しようという心理的余裕を失わせているのではないか。

最近のKKOや非モテを巡る論調や、児童手当の特例給付廃止に対するネットの反応を見ても、誰も彼も皆自分達がいかに苦しい思いをしているか、いかに虐げられているか、弱い立場に置かれてきたかを訴えるものがとにかく目につく。中にはこれまで等閑視されてきた者の主張として一定の正当性を感じるものがあるが、それら主張に共通しているのは「自分達こそ救われるべき存在である」という思いである。更に奇妙なのは、そうした人達の中に、自らの主張とは裏腹に自分以外の救済を訴える他人に対しては、その主張を「自己責任」の名の下に冷たく切り捨てる態度が見えるところである。

自己責任を巡る問題については、引用元のnote記事で詳しく論じられているが、社会全体として将来に明るい展望が描けず悲観的な空気が漂う現状が、個々人の内面において、他人に対しては強度の「自己責任」論的思考を、自らについては「社会に疎外されてきた弱者」という被害者意識をもたらし助長しているのではないかという気がしている。

更に事態を難しくしているのが、支援・救済の受益者側のニーズと提供者側の制約とのギャップだ。

「バリアフリー」を実現するという考えは、概念としてはユニバーサルなものであるが、と同時に現実問題として、どのようなハンディキャップを持つ人にどのような場面でどのような救済・支援を行うかについてギリギリ詰めて考えた場合、100人の障がい者がいれば100通りの方法があり得る。実際にはそうしたテーラーメイドな救済・支援を行うことは非現実的だが、より支援・救済の受益者に近いサービス提供者にこそきめ細かい対応が必要となる。それは行政単位で言えば政府より都道府県、都道府県より市町村となるし、鉄道などの公共交通サービスの提供者においても現場の実行部隊、従業員こそが鍵となる。

しかし、現実には、より小さな市町村単位の自治体になればなるほど全体のパイとしての人的・財政的なリソースには限りがあり、また自治体によってそうした人員面・財政面での体力には差があることから当然バリアフリーに充てられるリソースにも差が生じる。特に経済の低迷によって各自治体とも財政赤字に苦しむ現状では猶更だ。自治体によってその住民から見た障がい者支援の優先度合いも異なってくるだろう。

公共交通サービスにおいても、リソースをどの現場(駅)にどの程度振り分けるかについては各現場(駅)毎のコストと収益の見合いによって決めざるをえず、それは自ずとサービスを必要とする障がい者のニーズとは異なるものとなる。

障がい者支援の分野における国と地方との関係については必ずしも明るくはないが、最近の新型コロナへの対応を見ても明らかなように、「地方分権」の名の下にかつて行われた国から地方への権限の委譲により、国が障がい者に対して提供すべき支援・救済の水準を一律に設定し、その実施を各自治体の現場に対して強制的に確保することは、現在の国と地方自治体との関係においては現実問題として難しいと思われる。

かくして、総論においては「ユニバーサル・サービスとしてのバリアフリー」の実現によって弱者を救済することが社会の総意として望ましいとされながらも、「誰を弱者として、どのような場で、誰が、どのような形で支援・救済するのか」という各論を社会的合意形成の下に実行フェーズに落とし込むことは極めて難しくなってしまっている。これが今の社会で起きていることであり、今回の騒動の底流だったのではないかと思う。

これは、米国のトランプ前大統領の誕生とその施政においてより大きな社会の分断として表れた問題であり、容易に解決できるものではない。ただ、強い政治指導者を忌避する現在の日本の成熟した政治風土においては、トランプ前大統領がもたらした方向性とは別の意味でこの問題が深刻化していくことに危機感を覚えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?