清沢哲夫「道」と「絶対肯定」

「絶対肯定」

私達はよく
ああ馬鹿を見た
とつぶやくことがある。

人に捨てられていながら、
人の捨てきれない姿に気づく時、
知らず知らず馬鹿を見たとつぶやいて見る。
だがしかし
馬鹿を見た
馬鹿を見た
それは又なんとなつかしい名であろう、
そして又なんと力強い名であろう、
私は人に捨てられ仕事に捨てられ
しかもなお人が捨てられない仕事が捨てられない。

一切に捨てられていながら、
いな弱々しく馬鹿を見たとつぶやいて
自分で自分を捨ててみようと思っても、
捨て去れない自己の姿に驚く時、
私は敢然と立ち上がる。
馬鹿を見たと思う心にこそ
馬鹿は宿る。

馬鹿を見て
馬鹿を見て
馬鹿を見抜こうじゃないか。
そこにこそ私の世界はある。
私を捨てた人も仕事も
私のものとなる。
一切に捨てられた私が
一切ととっ組んで立ち上がり
明るく強く人の世を踊り抜くのだ。
そこにこそ光はひらめき情は湧き力はあふれるのだ。
永遠につながれてつきないあめつちの
生命のおどりをおどるのだ。
            (昭和二五年四月『同帰』所載)


これは大谷大学で教鞭を取られていた清沢哲夫の「絶対肯定」という詩です。清沢氏は「道」という詩がよく知られています。


「道」
此の道を行けば
どうなるのかと
危ぶむなかれ

危ぶめば
道はなし

ふみ出せば
その一足が
道となる
その一足が
道である

わからなくても
歩いて行け
行けば
わかるよ
   (昭和二六年10月『同帰』所載)

 「道」の最後は「行けばわかるよ」となっていて静かに送り出してくれるような感じです。アントニオ猪木の叫びのような自分を鼓舞しているのは上の「絶対肯定」のほうです。

清沢氏は他にも家族との暮らしを詩っておられるのですが、その明るい生活の様子の方が「道」の印象に近いと思います。