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何清漣★政治コロシアムのアウンサンスーチー 2021年2月3日


 ここ数十年、ノーベル平和賞は欧米諸国の「カラー革命」推進ツールとなり、平和賞受賞後、政治的抵抗の象徴的な人物として民主化への指導者になっています。例えば、南アフリカならネルソン・マンデラ、ミャンマー(ビルマ)ならアウンサンスーチー。 中には、ならなかった人もいますが、少なくとも受賞時には大きな期待が寄せられていたものです。しかしアウンサンスーチーのように、最初は褒め称えた同じ人々に、後になってボロクソに言われ、権力を得る前は軍部によって牢獄にあり、政権を担当すると今度はクーデターで拘束されたのは、おそらく彼女一人でしょう。

 その理由は、個人的資質もありますが、さらに重要なのは彼女の居場所があまりも危険な政治の闘技場だからです。

 ★ミャンマー自体が元々修羅場だった

 ミャンマーが政治的な修羅場だというのは二つの点からです。一つは民族的な矛盾が非常に鋭く、武装衝突が絶えないこと。二つ目は、軍人勢力が強大だということです。

 1948年1月4日の独立以来、民族問題はミャンマーの政治を左右する長年の問題となっています。 オスロ平和研究所の出した2016年の統計によると、1948年から2015年までの間に、ミャンマー政府軍と各民族武装グループとの間で、様々な規模、強度、期間で268件の武力衝突事件が起きました。

 中央政府は、8つの少数民族武装勢力と歴史的な停戦協定に調印しましたが、その中では中央政府と大きな矛盾を抱えたカチン独立軍、ミャンマー民族民主同盟軍(果敢民族民主同盟軍)など実力を備え近年何度も武装衝突を起こす少数民族は含まれていません。

 2015年11月の総選挙でアウンサンスーチーの国民民主連盟(NLD)が勝利し、翌年4月に政権に就いて以降も、政府軍と民族武装集団の間でさまざまな規模の武力衝突が勃発し続けていました。中でも2018年前半に爆発した衝突は深刻で、ミャンマー国防軍はカチン独立軍を攻撃、スンプラバム、ウェインマウ、タナイの各地方を砲撃し、12万人が行き場所を無くしました。

 ★軍事政権は憲法で保障されている

 軍事政権はミャンマーの政治体制の特徴です。1962年にネウィン将軍が軍事クーデターで政権を樹立してから50年以上も軍事政権が続きました。1988年、経済不安と政治的迫害によりネウィン政権は退陣を余儀なくされ、ソウ・マウン国軍最高司令官率いる新軍事集団が政権を握りました。

 2010年11月には新憲法に基づく総選挙が実施され、初代大統領に就任したテイン・セイン氏は、「民主的に選ばれた政府」の時代の幕開けでした。

 しかし、同氏のバックは軍で、実際は依然として軍人統治が続きました。2016年3月30日、NLDの上級メンバーであるティンチョー氏が率いる新政権が宣誓され、「文民支配と文民・軍の共同統治」という新たな歴史的局面を迎え、軍と政治の関係に大きな変化が起きました。

 しかし、テイン・セイン将軍(2011年から2016年まで同国大統領)の指導の下で作成されたミャンマー憲法(2008年)は、軍に多くの権限を残しており、NLD政府と並んでもう一つの権力の中心となっているのです。2008年憲法によれば、軍部は文民政府には服従せず、独立した集団であり、「国家の親権者」であり「憲法の守護者」なのです。

  憲法改正には国会議員の75%が憲法改正に同意しなければならないのに、軍部は議会の25%を占めています。それにに加えて、憲法417条によれば、大統領は、暴動、暴力、不当な強要によって連合の主権を掌握しようとした場合には、国防・安全保障会議と協議して非常事態を宣言することができます。

 第418条(a)はさらに、第417条の事態が発生した場合には、大統領が事態を鎮静化するために必要な措置として、連邦の立法権、執行権及び司法権を軍の総司令官に移譲することを宣言しなければならないと規定しています。ですから、ミャンマー軍部は、自分たちの軍事行動は憲法にのっとったものだと世界に言えるのです。

 ★ビルマは米中角逐の場

 南アフリカのマンデラは、国連やアメリカ、ヨーロッパの大国の大きな期待に応え、数十年にわたる支援を受けて、ついに南アフリカを「レインボーネイション」と形容される国へと変貌させました。

 この「レインボーネーション」の成立に、世界のメディアは歓呼の声を挙げ、それはこの国が逆民族差別や、経済的に中発展途上国から再び発展途上国に転落し、犯罪率が高騰するまで続きました。メディアは南アの現状を報道しませんが、しかし分かってる人は誰でも知っています。

 だからこそアウンサンスーチーは国連、米国、欧州の主要大国から希望の星とされ、進歩的勢力はアウンサンスーチーが民主主義に不足のあるアジアのためにミャンマーの民主化を推進することを願ったのでした。

 しかし、西側諸国に比べ、中国はお隣のミャンマーとの関係が深いのです。長い間、米国など西側国家はミャンマーに高圧的な制裁政策をとって、事実上、外交関係が無いも同然でした。ミャンマーの一番の外交相手は中国であり、カンボジアと並んで中国の最も忠実な同盟国で、東南アジアでの中国の利益の代弁者です。

 中国企業の数が多いことに加え、中国はマラッカ海峡依存から脱却するために石油輸送パイプラインの建設を進めています。ミャンマーは中国にとって経済的に重要なだけでなく、計り知れない政治的価値を持っているのです。

 長く利権外交をしてきた中国は、ビルマ政治における軍の役割を十分に認識しており、ビルマ国防軍だけでなく、一部の少数民族の武装勢力に軍備を提供するという形で、意図的に友好関係を維持してきました。ビルマ軍部はこの1月中旬に中国の王毅外相と会談し、軍事行動の可能性を伝えたと言われています。

 西側国家のビルマへの影響力は、主にアウンサンスーチーという世界的に有名な象徴的人物にかかっているのですが、それは、中国のようなミャンマーの地に深く根を下ろしたものにははるかに及ばないのです。

 ★西欧政治文化と本国の亀裂に

 アウンサンスーチーが政権を取ってから最も批判されているのは、2つのことです。

 一つは、彼女の政党が選挙で勝利したのち、大統領になれなかったのは「2008憲法」の規定によって、外国市民と結婚した女性や子女が外国人のビルマ人は大統領や副大統領になれないという規定のせいです。

 アウンサンスーチーはイギリスの歴史家マイケル・アリス(1999年死去)と結婚しており、2人の息子はイギリス国籍を持っています。ですから彼女は外務大臣か官房長官にしかなれません。この法律を迂回するために、アウンサンスーチーは引退後のリー・クアンユー(シンガポール初代首相)を真似て、「上級国務大臣」を設けて、自分が大統領よりも強力な指導者となり、政府を率いると公言しました。この動きは当然、アウンサンスーチー女史は権力に固執していると見られました。

 ロヒンギャはミャンマーのイスラム教徒集団で、当時イギリスの植民地政府によって導入されたベンガル系移民です。アウンサンスーチーが率いているのは自国の政府です。ですから、 自国政治の必要性から、ロヒンギャの危機を処理し、ジャーナリストへを厳しく弾圧するようになりました。

 独立後のミャンマー政府は、一貫してロヒンギャの市民権を認めておらず、ビルマの主要な信仰が仏教であることが民族紛争の火に油を注ぐ結果になっています。

 2010年以降、ロヒンギャとビルマ政府との間で血みどろの衝突が続き、最終的には大規模な弾圧へと発展し、ロヒンギャの死傷者を出し、難民危機を引き起こしました。国連の調査は、暴力を止められず、ヘイトスピーチ抑制をせず、軍の暴走を許した責任の一端があるとして、アウンサンスーチーを公に非難しました。

 国連の問責に直面して、アウンサンスーチーは軍の側につくことを選択し、2019年には、国際的な反発を受けて、オランダの国際司法裁判所に法的チームを率いて個人的に疑惑を弁護しました。

 2018年には、ロイターに雇用されている現地のビルマ人ジャーナリスト2人が、ビルマ政府軍による殺戮事件を報道したとして、電気通信法に違反したとして7年の懲役刑を言い渡されました。同年9月、ミャンマーの新聞「The Global New Light of Myanmar 」の政治評論家が、アウンサンスーチーを批判し続けたとして、ビルマの司法当局から「分裂を煽った」罪で懲役7年の実刑判決を受けた。

 アウンサンスーチーは国際社会から批判され、非難され、彼女に賞を与えようと競った十数カ国・国際機関は、オックスフォード自由賞、ベルリン自由賞、カナダ名誉市民権、アムネスティ国際良心大使賞などの賞は取り消されました。

 彼女への賞賛に満ち溢れていた英国放送協会(BBC)は、2019年12月に彼女に捧げる記事「アウンサンスーチー 『人権十字軍』から『ジェノサイドの弁護者』に」を掲載しています。

 私はアウンサンスーチーを批判するつもりはありません。彼女の立場と、その身分、その居場所は、各種の政治勢力がすざまじい戦いを繰り広げている政治的な格闘場です。2月1日の政変は予想できたことというべきでしょう。

 選挙の不正も私は根も葉もないことだとはおもいませんし、彼女とその政党にとっては、他国の政党が選挙をコントロールするやり方を学ぶことも別に難しくはないでしょう。

 彼女が敗れたのは、相手が軍事権力を握る力を持っていたこと、自国の憲法がそれを擁護する合法的なものだったこと。米国と西側社会は現在、自分のことで手一杯です。「非難の声」をあげるぐらいが、彼女への最大限の支持でしょう。(終わり)

何清涟:政治角斗场中的昂山素季
2021-02-03

近几十年来,诺贝尔和平奖成为西方国家推行颜色革命的利器,好些国家的政治反抗者象征人物被授予诺贝尔和平奖后,最后都成了带领该国实施民主化的领军人物。比如,曼德拉之于南非、昂山素季之于缅甸。有些人物虽然没能成为一国实现民主化的政治领袖,但至少在授奖之初时,确实寄予厚望。但象昂山素季女士这样一生经历过先是百誉集身,继而是群毁毕至,加誉毁誉都是同一批机构的同一批人;执政前身陷囹圄,执政过程中因政变被拘,关押她的竟然都是缅甸军方,放眼望去,可能也就她一人。

其间因由,个人因素有之,但更重要的因素却是她身处的政治角斗场太过凶险。

缅甸本身就是政治修罗场

说缅甸是修罗场,出于两点,一是民族矛盾非常尖锐,武装冲突不断;二是军人势力强大。

缅甸自独立以来,族群问题一直是长期困扰和影响缅甸政治的棘手问题。据“奥斯陆和平研究所”2016年提供的统计数据,1948年—2015年,缅甸政府军同相关族群武装组织共发生268起规模、强度、持续时间长短不一的武装冲突事件。2015年10月15日,缅甸中央政府与八支少数民族武装力量签署了具有历史意义的停火协议。但签署协议的少数民族武装中,并未包括克钦独立军、果敢同盟军等实力较强且与缅甸中央政府矛盾较大、近年来多次发生冲突的少数民族武装。2015 年 11 月缅甸全国民主联盟(民盟) 赢得大选并于次年4月开始执政以来,缅甸政府军和少数民族武装之间仍然不断爆发规模不一的武装冲突。其中以2018年上半年缅军与少数民族武装力量爆发的冲突最为严重,缅甸国防军炮轰了克钦独立军位于孙布拉蚌镇(Sumprabum),怀莫镇(Waingmaw)和德乃镇(Tanai)营地,导致12万人流离失所。

军政府势力犹在且有宪法保证

军人政权是缅甸政体的一大特色。缅甸国防军领导人奈温于1962年建立了军人政权,开启了长达五十多年的军政府统治时期。1988年,奈温政权因经济不振和政治迫害被迫辞职,以苏貌为首的新军人集团上台执掌国家政权。2010年,缅甸举行了全国多党民主制大选;2011 年,第一任总统吴登盛上台,开启了民选政府时代。但吴登盛的军人背景,仍然标志着缅甸军人统治并未结束。2016年3月30日,民盟资深成员吴廷觉总统领导的新政府宣誓就职,开启了“文官主政,文军共治”的新历史阶段,军人与政治的关系发生了巨大变化。

但是,在丹瑞大将领导下制定的《缅甸宪法(2008)》,让军人保留诸多权力,成为与民盟政府并立的另一权力中心。据缅甸《2008年宪法》规定,缅军不接受文官政府约束,是独立的、超脱于国家政治生态之外的军人集团,又是“国家的监护人”和“宪法的守护者”。除了规定军人拥有议会25%的席位、修改宪法必须获取75%议员的同意之外,宪法第417条规定:若出现企图以暴动、暴力及不正当强制手段去夺取联盟主权的情况,导致联盟有瓦解危机或可能出现丧失主权情况时,总统可在与国家防务与安全委员会协商之后颁布紧急状态。第418条(a)款更是明确规定,若是发生第417条所指的情况,总统应当宣告把联盟的立法、行政与司法权力行交给军方总司令,让他能够采取必要行动平定局势。

因此,缅甸军方昭告天下,他们的军事行动是依据宪法行事。

缅甸是美国与中国政治角力的竞技场

南非曼德拉不负联合国、美国、欧洲主要大国厚望,在它们几十年的长期支持下,终于将南非变成了一个彩虹国家。对这个彩虹国家的建成,世界媒体为之欢呼了好几年,直到南非逆向种族歧视盛行、经济上从中等发达国家再次堕入发展中国家、犯罪率高发为止。南非的现状,虽然主流媒体不谈,但其实明白人都清楚。

也因此,昂山素季成了联合国、美国、欧洲主要大国寄望所在,进步力量都希望昂山素季能够领导缅甸的民主化,为民主有缺陷的亚洲、也为世界打造一颗民主之星。

不过,与西方各国相比,中国与近邻缅甸的关系更密切。长期以来,美国等西方国家对缅甸实行高压制裁政策,与缅甸几乎没有任何正式外交关系。缅甸的最主要外交国就是中国,并和柬埔寨一道成为中国在东南亚最忠实的盟友与利益代言人。除了大量中资企业在缅投资,中国还在缅甸修建石油运输管道,以摆脱对马六甲海峡的依赖。缅甸对于中国来说,不仅有重要的经济意义,更有不可估量的政治价值。长于利益外交的中国,非常清楚军队在缅甸政治中的作用,一直刻意维持着与缅甸军队的友好关系,而且不止是国防军,还包括一些少数族的武装部队,方式是为他们提供军事装备。据说缅甸军方在1月中旬与中国外长王毅见面时,通告了可能采取军事行动的消息。

西方对缅甸的影响,主要在于扶持了昂山素季这位名震全球的政治象征人物,远不如中国那样根植于缅甸本土。

昂山素季掉入本国与西方政治文化的夹缝之中

昂山素季执政后最受诟病的是两件事情:

一是她所在的政党赢得大选后,由于《缅甸宪法(2008)》规定,与外国公民结婚或子女为外国人的缅甸人不能成为总统或副总统。昂山素季的丈夫是英国历史学家迈克尔·阿里斯(1999年去世),她的两个儿子是英国公民。因此,她只能任外交部长兼总统事务部长。为了绕开这条法律,昂山素季模仿李光耀退休后揽权的方式,为自己量身定做了一个“国务资政”的职位,而且公开称自己会成为在总统之上的实权领袖,领导政府——此举自然被视为昂山素季贪恋权力。

昂山素季领导的是本国政府。由于本国政治的需要,导致她在处理罗兴亚人危机及严厉打压记者。罗兴亚人是缅甸境内的穆斯林群体,当年英国殖民政府引进的孟加拉移民。独立后的缅甸政府一直不承认罗兴亚人的公民地位,再加上缅甸的主体信仰是佛教,信仰冲突更为民族矛盾火上浇油。从2010年开始,罗兴亚人和缅甸政府之间的流血冲突不断,最终演变为大规模的镇压,罗兴亚人死伤惨重,引发难民危机。联合国调查后,公开谴责昂山素季未能制止暴力行动,没有运用职权和道德声望遏止仇恨言论在国内散播,任由军队胡作非为,为此要负部分责任。面对联合国的责难,昂山选择站在军方一边,为此还专门于2019年率领法律团队前往荷兰国际法院,亲自为相关指控辩护,国际社会对此舆论哗然。2018年,两名路透社雇佣的缅甸本土记者因报道缅甸政府军大开杀戒,被以违反《电信通讯法》的名义判刑7年;同年9月,《缅甸环球新光报》某位政治评论员因为不断批评昂山素季,而被缅甸司法当局以“分裂”罪名判刑7年。

昂山素季因此备受国际社会批评指责,当年争着授奖给她的十余个国家和国际组织相继撤销奖项,包括牛津自由奖、柏林自由奖、加拿大荣誉公民、国际特赦组织良心大使奖等荣誉。BBC对她曾用尽了赞美之辞,2019年12月专为她写了一篇《昂山素季:从“人权斗士”到“种族屠杀”辩护者》。

我无意批评昂山素季。设身处地,以她之身份,所处之地又是各种政治势力凶狠缠斗的政治角斗场,2月1日之变应该是意料中事。舞弊之事我不认为是空穴来风,对她与她的政党来说,学习他国政党操纵选举的做法并非难事。她的失手在于对手是执掌军权的实力派,还有本土宪法加持的合法权力。美国与西方世界现在自顾不暇,谴责应该就是对她的最大支持了。

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