短信:胡乱

 この文章、書いてて本当に愚かだと思った。でも出す。

 たぶん僕が初発見じゃなくて、いろんな人間が有史以来知ってるとこ知らないとこでさんざ俎上に載せてきたことだと思うけど、人間は己を御するにはあまりにも賢すぎる生き物である気がしてならない。
 漠然とした不安にすらならない、ちょっとした浮き沈みする思考の一つにすぎないが、最近そんなことを思うときがずいぶん増えた気がする。
 僕はとても保守的な人間で、旧来の生活を変えることも思考を変えることが半端じゃなく苦手だ。したがって不安定でころころ変わる人間関係やあらゆる「順位」の絡む物事も変遷の著しさがダメだし、勝っているうちはよかったのだが最近は何の勝負にも勝てないので競争の類も苦手になってきた。思考だけはぐるぐるするが、物事は何もいい方向へ行かない。そういう生活が数年続いただけでだいぶ打ちのめされてしまったのかもしれないが、その現状を確認してなお座視してるだけ、まだ図太いのかもしれない。
 閑話休題。
 ときに人間の思考について、「賢くなくてはならないのだろうか?」というのが最近のテーマである。
 昔は「賢ければ賢いほどいい」、最近までは「賢いほうがまだいい、損はしない」だったのだが、これすら揺らいできてしまった。
 人間は自分を殺す言葉を持ちすぎている。必要とする理想が多すぎて息苦しく、それでいて堕落からは逃れられず、筋の通った論理は虚像であることが極めて多い。いくら賢くなっても他人が愚かだったり、まだ自分が愚かだったりすることを自覚するばかりで、悩みが増えるきっかけにさえなりうる。この社会性という檻から逃れられない限り、あるいはいっせーのーせで人間が賢くならない限りは、人が真に心理的に報われる日は来ないんじゃないかと、最近は思っている。
 停滞に名前を付けているだけかもしれないのは自覚している。
 しかし愚かであることは自己保全行為にもなりうるだろうというのは、僕が強調しておきたい、一つの見方だ。
 井の中の蛙は、鮫を見て傷つく必要がないのだから。
 蛙の中にも、時に井戸を出て鮫と対等に張り合う天才が出て来るし、努力で鯨に化けるやつだっている。そういう人の為に勝手に出ていける井戸はあってしかるべきだが、出ていかないことを選べ、それが尊重される世界、あるいは、せいぜい鮭くらい柔軟性を得る時間を井戸で得たっていい。
 傷だらけになることだけが成長でなく、それは賢い行為とは限らない。
 失血死する前に届け。


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