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異端かもしれないという話(備忘)

自分の創作の特異点シンギュラリティーに到達したときに、あらためて見返すために記す。


「異常」の部分

 僕の偏執ともいえる異様なまでの外来語嫌いは、親しい人間の中では割と有名な話である。
 そしてそれは、明確になっている中では僕の最も異常な部分の一つでもある。
 哲学として、固有名詞を除くすべての外来語は漢字で言い直せると「思い込んでいる」し、後述するようにそれが実際は幻想でしかないと分かった現在でも、日常会話や創作物に外来語を用いないように割と徹底している。
 赤裸々に語ってしまえば、それは英語が嫌いだからで、文字だけ見て意味を推測できる漢字が好きだからで、偏屈な僕のただのくっだらない「こだわり」に過ぎないのだが、こういう厄介なものに限って人間は後生大事にしたがるものだから、複雑だ。

 大学の同級生にこの問いをぶつけたときの回答が納得いっているので、外向きに何かを評価したりするときにはそれを流用させてもらっている。
 曰く「外国語由来の言葉が、どの日本語にもない微妙なニュアンスを持っているのであれば、それを使って然るべき」というものだ。
 これが上述した、僕の「こだわり」を幻想だと気づかせた回答である。
 と同時に、なんとも外国語学部らしい寛容な精神の回答ではないだろうか(僕も同じ学問を学んでいるはずなのに、一体どこで差がついたのだろう!)。
 今まで様々な人にこの問いをぶつけてきたが、この回答だけを甚く気に入っている理由は、たんに彼が僕の仲間だからでも、他の人が嫌いだからでもなくて、彼の回答が僕のしょうもない「こだわり」と衝突しなかったからだ。
 僕は、日本語で言えることを、わざわざ外国語由来のものに換言する理由が分からないのだ。そこに必要性がないのに、形容詞をカタカナにされると、すごく話しにくい。これは自分の「こだわり」を正当化する数少ない(そこそこ)論理的な理由だ。だから、必要性に応じて使うのはいいという彼の意見はすんなり入ってきた。僕の「こだわり」を補強したとすらいえる。

 さて、タイトルにある「異端」というのは、実はこの話を指したものではない。上のは、あくまである程度の正当性をもって大衆に受け容れられつつある文化を全く受容できていない僕の一面を語ったものに過ぎず、上述した通り望んでやっているというよりは「変節できない異常」なのだ。初めに僕のちょっと感覚のずれだとか、それにどうにやって折り合いをつけてるかを書きたかっただけなので、正直言ってここまでは自慢話、として記憶からポイしてもらっても構わない。
 以下、「異端」を「望んでやっている異常」として書いていく。

(なお、上も下も自虐的な書きぶりが続くが、書いている本人はハイになりながら楽しんで書いているので、あまり深刻に捉えないでもらいたい)

「異端」の部分

 すべてをひっくるんだ「創作」が始まったのは十歳、小三のときだ。
 夢の内容を覚えていないことがほとんどの僕が、珍しいことにある夢を見たうえで覚えており、その内容を描きだしたいと思ったのがきっかけである。(その光景は覚えてこそいるが、現在も描きだせてはいない。口惜しいばかりだ)
 初めは無印良品に売っている単行本にマンガモドキを描き始め、中学生になるころにはコピー用紙に絵を描くようになった。
 少しだけだが二次創作などにも手を出し、そこで字を書くようになった。
 高校に入るときに趣味でTRPGをはじめ、二年生からは顧問になかば騙される形で入部した文藝部で、大好きな小説と当時大嫌いだった俳句を書き続けた。
 大学に入ったらすぐさまやめてやろうと考えていた俳句は、【銀竹】で続けることになった。現在は各型式に一家言あるメンバーがいるため、高校時代よりも短歌や詩にまで、本腰を入れて取り組んでいる。
 森羅万象に興味が薄いと思っていた僕だったが、実際は気が付かないうちにn次創作に関わるあらゆる手段に触れていたうえ、そのほとんどが現在も趣味として定着していた。そのうち音楽とかも始めるかもしれない(笑)。

過渡期

 大学に入る前と後で、知らないうちに創作に大きな転換が訪れていたのを、最近ようやく自覚した。
 具体的には「自分が満足する作品」「他人に見せる作品」か。
 僕は全ての創作で、高校以前では自分の作品しか見えていなかったなと、最近思うようになった。
 自分の気に入った俳句を出し、句会でダメ出しを食らう(高校三年間)
 自分の気に入った絵を描き、他人受けしない(六年も経験に差があったある先輩の方がずっと絵がうまい。これは自他ともに認める事実だった)
 自分の気に入った小説を書き、「漢字が多すぎますね」と苦笑される(伏線回収?)
 などなど。
 中学までは創作物はごく限られた仲間または自分が楽しむために作られていたため、苦言を呈する人も中立的な評価を下す人もいなかったし、その必要もなかった。
 その「自分が満足する作品を書けば(描けば)いいや」という思想に一切手を入れないまま、創作物を他人に見せる活動を高校からやり始めたため、いうなれば心構えができていない状態で、俎上に載せられた自分の作品に対する中立的で容赦ない評価が刺さっていたのだ、と思う。
 何にでも原因を求めることはしたくないが、高校時代が一番、あらゆる創作で躓いていた時期だったのは、そういう心身の乖離があったからなのだと考えてもいる。
 そういうわけで、僕の創作の転換期は間違いなく高校卒業から大学生にかけての、まさに今だ。

転換期

 「他人に見せる作品」を(ほぼ無意識のうちに)書き始めたのは大学入学後だ。
 決してうまくはなかったが、他人に褒められる喜びを知った僕はある種の「コツ」を掴み、自分が満足しつつも他人に見せられるような作品がちらほら出てくるようになった。
「どうに書けばわかりやすい表現になるだろうか」
「どうに描けば誰もが美しいと思ってくれるだろうか」
 そんなことを、やっと、大学生にして考えるようになったのだ。人間的成長である。
 そして貪狼のごとき精神は上達を呼ぶ。自分自身が望む作品を書くことが、そのまま他人に見せられる作品を書くことにつながるようになった。
 かつては分かたれた二つの創作の軸だったものが、上達を経て重なり、今の自分には、ぶっとい「他人が喜び自分も満足できる軸」が一本貫いている状態にあるのだ。
 もちろんここに来るまでは苦悩もあった。自分が満足できる作品にも変節を要求するからだ。こればかりは時間しか解決してくれないので、納得できるようになるまでは違和感や自己嫌悪と戦わざるを得なかった。はからずも創作が人格に直結していたことで、あわや私生活にまで支障が出る程度には追い込まれたこともあったが、やはり失った時間と経た苦しみの分だけ大きく成長したと、今となっては評価できると思う。

 ただ、これでハッピーエンド! とする気はない。問題提起はここからなのだ。
 創作でハッピーエンドと言っているのは、作者が用意した編集点をそう呼称しているに過ぎないのだから。

次に必要なこと

 ……やっと本題に来られた。
 さて、僕を物語の主人公とした物語があるなら、成長した今の自分はすごい! えらい! ~完~ Fin! The END! 著者あとがき! 後付!(ヤケクソ)としてしまっても良いのだが、あいにく僕の人生には続きがあるし、そこには創作の続きがあるので、編集点で区切るわけにはいかない。ハッピーエンドの七文字でその後の人生を片付けてくれる僕の物語の著者が僕にはいないのだ。
 大きな心身の乖離だとか「こだわり」にある程度の折り合いをつけ、無事にそこそこの成長を遂げることができた僕だが、今どこにいるのかと言われれば、「戻るかどうか」の瀬戸際と答えるしかない。
 はて、戻る? どういうことだ? と思われる方がほとんどだと思う。
 こんな言葉足らずで進めるわけにはいかないのでちゃんと答えますとも、ええ(訳:あとで自分が見返したときに分からなくなるとすごく困るので詳細に書きます)。
 具体的には、これからの創作にあたって、精神を「自分の満足する作品を書く」ものにするのか、「他人を満足させる作品を書く」ものにするのか、という判断を迫られているということである。
 さっきまでの問いと全く同じじゃないかと思うかもしれないし、事実そのとおりだ。
 さっきまでの問いは「他人を満足させる作品が作れないよぉ!」という不可能が、長い年月と経験を経て実現可能になったということである。一方で今回の問いは「他人と自分、どっちを満足させる作品も作れるようになったけど、じゃあどっちに進めばいいのぉ!?」というものなのだ。

 ……言いたいことは分かる。
 読者の大半が思っているだろう「そんなのお前が言うとったやろがい、両立すればええやん」という意見は至極まっとうな回答だと思う。その結論自体はこの問題を自認したさいに既にはじき出されているし、議論の余地がないくらいまっとうで、究極では正解だと思う。
 けれども一方で、今後の創作を続けていくのであれば、どちらかに比重を置かなくてはならないとも思っている自分もいるのである。
 詳細に理由を語るのはやめておくが、一言でいうなら実現可能性だとか再現性だとか、結局それが最終方針になることはないので先行投資にするにはどっちがいいかだとか、面倒なことばっか考えなくちゃあいけないのである。だが、中庸に居続けることは安住であって上達の道ではないというのは、経験的に言えることだろう。安住するのは修行僧ではなく隠棲後の仙人に違いない。

自分の望む作品

 冒頭でも話した通りいささか偏屈な「こだわり」がある僕の創作は、なまじ長年作っているおかげか、嬉しいことに「うまいね」と言ってくれる人はいる。いるのだが、熱烈に慕ってくれる人は現実に少ない。自他ともに認めるしごく難解で冗長、しかも「こだわり」が隠し切れない文章を見るたびに、読者はうんざりするだろうし読むのに苦労するからだと思う。上述したが、創作者である僕の人生観なども多分に含まれる文章になるため、間違いなく濃密に書ける自信はある。だがそれが迎合されるとは思えない。
 実際、ここまで見てくださっている読者も、長々した文章にそろそろ飽きてきている頃ではないかと思うが、もし仮にそうなのだとすれば、僕が今ここに述べている自身の問題は僕の主観のみならず、客観的にも深刻に認識してもらえるものだと思う。
 僕の望む作品を書いたときに起きる事象はわりとはっきりしている。羅列しよう。
・書いている張本人である僕は創作過程を楽しめる。
・我が強いこの書き方でないと作れない作品がある。
・書き方にも内容にも作者の哲学が多分に含まれるため、作品を鑑賞する際のノイズになる。
・単純に読みにくいし分かりにくい、あと客観的に見て「異端」であり、評価される前に忌避される可能性が否めない。

 あくまでも僕の考えだが、作品を生み出すということは誰かに見せるところまで含めると思っている。自己満足に浸るのは習作だけで良くて、自分の作品として世に出るものはどんなもの・どんな形であれ「評価」をもらわねば完成しないのだと、そう考えている。
 モナ・リザを描けたとしても、それを机に仕舞ったのでは、習作以上の意味は持てないのではないかということだ。
 また、自分がありったけ満足する作品は、自分をあますところなくぶつけられる一方で、ありったけが俎上に載せられずに終わる可能性があるというリスクを孕む。練りに練られて骨まみれになった作品(魚)を釣りに行く物好きは少ない。まして捌いて食うところまでいくならなおさらだ。
 読者が全員僕ならいいのだが、世の中はそれほどうまくできていない。

他人に見せる作品

 近代合理主義と、いわゆる作品を書くうえでの定石セオリーをもって、自分の「こだわり」等々のとがりを削り、大衆文化に迎合した作品を作る。これは非常に安全だが、実は僕はそれをまだやったことがない。
 公式的な場で作品を発表した機会は多かったが、高校時代の高校生文学賞や俳句甲子園は上述した通り「自分が満足する作品」を出していたので、尖っていたし、定石セオリーなどというものを微塵も理解していなかった。かろうじて俳甲は他の生徒やコーチの指導・添削に曝されていたため、そういうフィルターをくぐってある程度定石セオリーに「寄せて」はいるが、不本意でやっていたことなので当然経験とは言えない。
 学ぶ姿勢が欠如していたせいで、培ったものがないからだ。当時の僕は胡坐をかいていた。なまじ「作れる」のは慢心ばっかり呼ぶので、今考えると強みとはなりえない。
 大学に入ってからは外部の句会に投句したり、【銀竹】のネプリ・noteなどで作品を公開したりはしたが、前者は反閉鎖的な空間で、後者はゆるやかな共同体なので、どちらも完全中立からの意見はもらえていないと思っているし、外部というよりは身内に出す意識で作品を生み続けている。
 よって僕はまだ一度も、完全に「自分を抑えた作品」を出したことはない。必ずゆんゆの偏屈さと小気味の悪さが多分に含まれた作品になっている。塩梅が取れている今はまだいいが、それを前面に押し出すという道に舵を切ったとき、読者が評価する作品ができるのかという問いがそこにはあるのだ。

 とはいえ未知に対して感じるような怖さがあるかと言われれば、実はそれほどない。どのような形であれ、今までやってきた創作の延長上にあることなので、一度割り切ればためらいなく実行する自信がある。実行に移してからは選択を信じて進み続けるだけなので、その前にひとしきり悩んでおこうとしているのが現状だ。
 どちらかと言えば、僕の危惧は、他人に見せる作品を書く中で、自分の最大の強みを失ってしまわないかというところにある。僕という人間が二十年間で培い、他人に見せる作品に乗せて届けたい経験が、乗せられなくなってしまうのではないかという危惧があるのだ。
 もしそうなれば、僕は創作する理由と楽しみを失う。それは曲がりなりにも半生を創作に費やした僕にとっては死を意味する事実でもある。「つべこべ言わずに行動してみろよ!」と助言してくる人はいるし、僕もそうだとは思うのだが、大一番の大胆な行動の前には慎重な検討くらい、あってしかるべきではないだろうか。

現時点ではどうしたい?

 ここまで論じた以上、20歳8ヵ月時点での僕の考えに結論を出しておく必要はあると思う。ただ並び立てて「どうすればいい?」と丸投げする姿勢は今までの僕と同じで学ぶ姿勢が足りず、愚かだからだ。
 僕はここまでの考えをまとめて、判断が一時的なものか恒久的なものになるかは分からない(おそらく前者になるだろう)が、「自分の望む作品」、自分の書きたい作品を書きたいように書くという方向に大胆に舵を切りたいと思う。理由はいくつかある。
 一つ目は「再現性」。胡坐をかいていた僕も人に見せる作品を作れるようになった。そこに長い年月、その間に作り棄てられた多くの作品という犠牲があったことは間違いないが、その犠牲を払えば「自分が望む作品」に「他人に見せる作品」の要素を加える変節を行うということは、理論上は可能だと経験で理解している。今回の決断は「あえて極端な方針決め」を行うことであるため、よほど致命的なミスがなければそのような急激な撤退はしないと思うが、ミスしない前提で進めるあそびゼロの計画よりはよほど健全だと思う。
 二つ目は「先行投資」。持論だが、創作の核は一年やそこらで育つものではないと思っている。これは作者の創作力という核しかり、物語の極めて中心にある核心しかりだ。どこかのタイミングで再び方針転換して、「他人に見せる作品」を模索することになるとすれば、「自分の望む作品」を書くうえで得たこれらの技術は決して無駄にならない。逆に最初から読者に寄せてしまうと、ありふれた味気のない核心や凡庸な描写ばかりが育ってしまう。創作は何も全編「転」ないし「破」でできているわけではないので、それらも大事な要素ではあるのだが、後天的な獲得が容易だし、それならば長い時間を犠牲にようやく得られるものを優先してしまった方がかなり将来的に役立つのだと考えたというしだいである。
 向こう数年、最低でも一年くらいはこの創作を実践し、自分の作風に磨きをかけることにしようと思う。それが今より後退することを強いてきたり、継続しているのに大きな効果を挙げなかったりした場合は再考する機会だと思って変節をすることもあるだろう。大事なのは今成功することよりも、大小さまざまな成功と失敗をする体験、そしてそれを糧に、あるいはバネに、人生終了のその瞬間まで「完璧」を限りなく追求していくことなのだ。

終わりに

 二日に分けて書いた文章だし、書きながら内容を考えているせいで要領を得ない記述がだらだら続いたことと思う。ここまで読んでくださった方に謹んで御礼を申し上げるとともに、この文章を書いた理由を述べたい。
 先日、齢三桁に到達していた曾祖母が眠るようにこの世を去った。かなり血縁的に遠いこともあって本当はいかないことになっていた葬儀に、わけあって出席することになったのだが、そこで僕は多くの「リアル」を体験してきた。五感に流れ込む情報は家で机上の空論を積み上げるよりはるかに瑞々しくて、曾祖母が与えてくれた機会に感謝したものだった。
 「リアル」を「観た」とき、考えるのはいつも創作のことである。頑固者の僕は理由がないものが大嫌いだったし、したがって創作の裏にも必ず伏線という形で筋を通したがった。そのときにいつだって役に立つのは「リアル」を経験したという記憶である。不謹慎ゆえ、葬式で何か作品を作るのはやめたが、複雑な感情の推移とか、人の死という「生」の極限に触れた経験は、必ず創作を豊かにしてくれるのだという確信がある。
 生死といえば、最近遺書を書こうと思っている。……とりあえず安心してほしいのは、僕は120歳という大還暦まで生きるつもりだし、自裁とかの予定はなく、心身ともに健康そのものであるのだが、それでも遺書は書こうと思っている。
 人はいつくたばるかわからないからだ。
 一年おきに遺書を作っておけば、いつ僕が不慮の事故でくたばっても、PCの中のデータをどう扱えばいいかも指示できる。死を意識し始めたときに書き始めるなんてまっぴらごめんなので、せっかくならポップに書きたい。古典的に「HDDの中身は見ずに消してね!」とかみたいにね(笑)
 その一環、というかはしりに、この文章は書かれている。今そういうことにしました。
 これから一年おきに、前年の遺書に基づいて改訂され更新される、その遺書どもの序文でもあるのだ。
 遺書に自分語りとか思想を書き残しておきたい。自分というこってこてな人間が生きた証を、記録としてとどめておきたい。
 これもまた、自分の頑固な思想の一つであったりする。

 備忘録という形をとったので、いつかまた見返す日は来る。そのときまでに、僕の創作活動に進展があることを、他でもない、僕自身が一番望むことだろう。
 これからの人生に幸あれ。これからの創作に栄光あれ。

2024/02/26
記 ゆんゆ

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