短信:小骨

 たまには脳みその中を洗うような気持ちで、思いをことばにすることも大事だなと思い、短信というかたちをとることとした。

 先輩に小説を見せたときに、「誤解されるのが怖いんだなって感じの文章だね」って言われたことがある。それの指し示すところと言えば、僕の文章の過剰な修飾が、読者に読みを任せない、そもそも読みが分かれるような事態を招かないための予防線である、ということであろう。これは言われて初めて分かったことであり、同時にスッと納得のいく説明でもあった。僕は自分の文章を、自分の脳に光景として映り込んだとおりに相手に伝わってほしいのである。

 ところで、この「誤解されたくない」という気持ちは、どうも文芸に限らず、自身のもっと深く、人格形成の段にはすでに登場しているように思う。というのも僕は、どれほど無駄な作業だと分かっていても、相手が自分を貶めることに過敏になってしまう。実力で見返そうとかじゃなくて、わざわざ相手と同じ土俵で説得を試みようとしては、徒労に終わる。
 読者の言いたいことは分かる。誤解を避けるなんて無理だ。人間どんなはずみであれ、誤解ないし歪曲された視点という沼にはまることがあれば、そこから抜け出せないなんて常である。さすがにこの年齢まで生きてきた以上それは自覚するところなのだが、それでも僕はふとその瞬間に立ち会ったとき、自制しきれずに猛り狂ってしまう。
 別に僕は偉大な人間なんかじゃない。これは卑下とかではなく、自分を客観視したごく冷静な意見としてのものだ。偉大な人間というのは、すくなくともnoteにこんな愚痴を書いて発散するような人間じゃない。粛々と努力を続けて回りをアッと言わせる人間の方がよっぽど「偉大」だと僕は思う。
 だが僕は冷静に自分を見てほしい。過大評価なんていらないから過小評価しないでほしいという、ただそれだけのように思う。最近、この思いが一層強まって、僕という人間を護ることに意固地になっている。この保守的な考えはどこから来ているのだろうか、明確な答えは出せないが、どうにも心当たりはある。

 去年の鬱を越え、恋愛をするほど周りを見る余裕を取り戻した僕は、同時に世間や自分の生きる世界の周りの人間にも目を向ける余裕ができた。
 自分に予測できない動きをする人間と言うのは、面白い。自分一人でできる体験というのは限度があり、ゆえに他の人生を他の哲学のもと歩み、自分の人生にありようもない体験を僕に話として(あるいはそれを踏まえた言動として)如実に語りつくしてくれるというのは、人間関係における市場の喜びの一つだ。世界が広がる心地がして、喜びが共有され、世界をみんなで生きているんだなって言う晴れやかな気持ちにさえなる。僕が部屋でゲームしているときに、知人が彼氏の家で同衾していた話も、僕が部屋で惰眠を貪っているときに、知人が実家で犬と戯れていた話も。グンマを股にかけてごろごろする僕と、世界を股にかけて溌溂と動き回る知人ども。いつか定かでない東京の居酒屋のひとまくの話とか。エトセトラ。そういうものを、安価に摂取できる、ある種ドラッグのように蠱惑的な誘惑さえ覚える体験と言えばいいだろうか。とまれそういう人間観察は大好きだってことは、よーく読者に分かってもらえたことだろうと思う。
 でも最近は事情が違ってきた。親しくなった人間から吐き出されるのは、もっとも暗いところ渦巻くドス黒い感情だった。大学生らしい諦観と脱法へのあまりにも軽い衝動。口を開けば論点を無視した殴り合いの始まる、議論のていをとったただの水掛け論。ここ数か月、別段だれと喧嘩したわけでもないのに、誰か別な人が僕でない誰かを対象にした口撃を加えるたびに、心臓から何かが剥離するようなものすごく嫌な胸やけがする。精神的にも落ち込む。僕自身がバイトでミスしたときとか、教習所で車の運転に緊張して精神的に疲弊したときの比でさえなく、僕は他人同士の諍いに本気でくよくよしてしまっている。

 人間とは美しい生き物だと教わってきた。
 今はそうは思えなくなってしまった。
 僕の価値観は大きな転換点に立たされている。ある種世間が僕よりずっと早く認識していたドライな事実を、21にもなってようやく咀嚼しなくてはならなくなったのかもしれない。
 僕はまだ人間を美しい生き物であると信じていたい。理想に燃えて死んでいきたいのだ。腐れ切った事実の中で生きなくてはならないという現実が、今日もまた玄関のドアを叩きつけて来るけど……
 まだ僕の価値観は夢を見ていたいのかもしれない。その葛藤が、小骨のように喉に詰まって、いまもちゅくちゅく痛むのかもしれない。
 そういう悩みを、ずっと抱えていることだけでも、誤解されないでほしいと、ずっと願って生きていきたい。


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