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栄西って何をした人?「喫茶養生記」から分かるお茶の健康効果

何気なく飲んでいるそのお茶。健康の為に飲んでいるよという方も多いはず。
では、一体いつごろから我々日本人はお茶を飲むようになったのでしょう?
それを調べると話はなんと平安時代末期にまで遡ります。その時日本は源平合戦の真っ最中。世は乱れ、日本人の健康も心身ともに乱れていたといいます。

そんな時代に仏教を学ぶことで日本を救おうとした人が栄西です。
彼は日本で最初にお茶の健康効果を紹介したお坊さんでもあります。
今回はそんな栄西と、彼が書いた日本で最初にお茶の健康効果を紹介した本「喫茶養生記」について、歴史の苦手な人にもわかりやすくお話したいと思います。

「茶祖」栄西ってどんな人?

栄西は1141年、現在の岡山県に生まれました。8歳で仏教の難しい本を読んでいたと言われていて、幼い頃からとても優秀だったそうです。10代で京都の比叡山延暦寺に登って修行を積んだそうで、さらにそれらを学ぶため天台宗の総本山のあった南宋(当時の中国)に留学に行きます。栄西は20代の時と40代の時の2回留学したそうで、その修行中にお茶の健康効果を知ってお茶についても学んだのだそう。
そして禅宗の宗派の一つである臨済宗を学び日本に伝えるとともに、お茶の種やその育て方等の知識を日本に持ち帰ってきました。そしてそれを日本各地に広めて行きました。

以前のブログ(日本最古のお茶〜信楽の朝宮茶とタヌキの焼き物〜)でも書いた通り、栄西の時代よりさらに300年ほど前の奈良時代にはすでにお茶は中国から日本に渡って来ていました。しかし、それは高級品・趣向品としてほんの僅かに生産されていただけなのだそうで、一般庶民にまでは広まっていなかったのだそう。それを栄西は正しい育て方や正しい飲み方を広め、自身や弟子の修行に取り入れました。

また、このあと紹介する「喫茶養生記」という本を書くことでお茶が健康に良いことを弟子のみならず多くの人々に広めようとしました。

「喫茶養生記」って何が書いてあるの?

ではその「喫茶養生記」には何が書いてあるのでしょうか。
簡単にまとめると以下のような内容でした。

陰陽五行で見るお茶の健康効果
お茶の植物としての特徴
お茶の効能
お茶を摘むのによい時期や注意点
お茶を加工する方法

栄西の時代に流行した5種の病気とその改善方法
桑を使用した健康法
お茶を飲む健康法
その他の生薬を服用する健康法

読んでみると、そこにはお茶にとどまらない健康に関する研究がありました。
中国で学んだ健康についての話ということで、東洋医学や薬膳の考え方が出てきます。
皆さんは薬膳についてご存知でしょうか。
薬膳とは中国伝統医学の考えに基づいた食事のことで、病気を未然に防ぐ為にバランス良く食べることを説いています。
その食事のバランスを現代のような「栄養学」ではなく「陰陽五行論」に基づいて考えられているのが薬膳の面白い部分です。

陰陽五行論とは、「万物は木・火・土・金・水の5つの元素から成り立つ」とする考え方で、食事も味でこれら5つに分類されます。臓器もまた同様に分類され、木=肝=酸味、火=心=苦味、土=脾=甘味、金=肺=辛味、水=腎=塩辛味となるのだそう。これらをバランスよく摂ることで病気にならない身体を作ることができるという考え方です。
そんな陰陽五行論をもとに喫茶養生記では「お茶」は「苦」にあたり、「心」つまり心臓・血液循環に影響を与えると書かれています。
栄西曰く、心臓は五臓の王であり、「苦」の最上位がお茶であるのだそうで、お茶を飲めば「心」にいい影響があり、「心」が良ければほかの臓器も安泰なのだそう。
当時の日本人の食生活にはこの「苦」が不足していて、お茶を飲むことで崩れたバランスが良くなると栄西は説いていました。

また、中国の数々の書物を引用して、お茶に健康効果があることを強調しています。いまでこそ科学的にお茶の健康効果が分かっていますが、昔から体感や経験を通して健康効果を分かっていて飲んでいたのが驚きです。

栄西が日本茶の始まり

お茶はもっと昔から日本に来ていましたが、広まったのは栄西が積極的に庶民にも紹介したからだといわれています。
自身の開いた禅宗で修業する僧侶にはもちろん、鎌倉の将軍にもこの「喫茶養生記」を献上してお茶をおすすめするなど、多くの人にお茶を広めていました。

臨済宗は、読経や修行によるものではなく「座禅」という形で悟りを開くという方法が当時の武士の人気を集めました。その結果、武士にも栄西の臨済宗が広まり、同時にお茶が広く行き渡っていったのです。
ここからすでに仏教(禅)とお茶と武士の繋がりを感じますね。

栄西が中国から持ち帰った禅とお茶。この為栄西は「茶祖」と呼ばれていたりします。
栄西がいなければ今の日本のお茶文化はなかったかもしれません。


本記事のライター:古幡祐介