記憶から推論への変化

 あくまでも恣意です。
 人の判断が経験論から推論へと変わり始めた端境期に直面しているという仮説です。
 但し、この端境期は千年から万年単位で考えた場合のものですが。

経験論

 自然淘汰に勝つためには的確な判断が必要である。
 記憶を持ちうるものは、植物や動物、ウィルスから人間の関係なく記憶を基に判断を行い、種として生き延びてきた。
 あそこの森は獣が出て、仲間が喰われたから行かないほうが良い。
 この木の実を食べて苦しんだから食べないほうが良い。
 この金属は、あの金属を切り裂くからこれの方が役に立つ。
 ○○さんのお子さんは△△塾に通ってお受験に成功したから、私の子供もも通わせよう。
 ウィルスでさえ、変異を記憶とこじつければ、この変異の方が生き残りやすい。(だいぶん苦しいこじつけだが)
 つまり、自然淘汰に対して勝利する方策は経験論であった(過去形)。

慣習から法律までの経験論

 人類に限っても、樹上生活の時代からの記憶が判断の基となり、それが正しかった場合に種として生き残ってきた。
 だから、現在生き残っている我々の「種としての記憶」、つまり、慣習や法律などは、「種として」の生き残りや繁栄のための(繁栄しなければ滅ぶ)判断基準としてのものである。
 つまり、法律であってもそれは「経験論が、種としての共通記憶となる」ための手段でしかないのである。

 ここで、興味深い仮説が成立する。
 「殺人は悪である」という仮説である。
 殺人は、「利益を妨害する他人」を排除する一つの手段である。
 いや、一度殺してしまえばそれは妨害の完全な排除であり二度と邪魔にはならないから、効率的な排除手段である。
 しかし、この安易な対策は憎悪の連鎖などを生み出し、果てしない復讐劇を生み出す。
 さらに、安易な手段としての殺人が一般的になると、殺人が当然のように繰り返される。
 さて、利益の障害となる人物は、えてして有能な人物である。
 つまり、殺人は有能、あるいは優秀な人を葬る。
 さらに、憎悪の連鎖による復讐劇という連鎖はこれに輪をかける。
 殺人が安易に許される社会は、優秀な人材を失いやすく、優秀でなくとも人口を減らし、その社会全体の「体力」を失わせる。
 結果として、その社会は周囲の「より強力な社会」によって占領、最悪の場合は滅ぼされて歴史の舞台から去る。
 この経験論が、殺人を罪としているのである(仮説だよ)
 同じ仮説は、窃盗や詐欺が罪とされていることにも適用できるだろう。

 ただし、「戦争は悪」は殺人に対する上記の仮説の延長線上には無い。
 なぜなら、「以前(現代ではない)の戦争」は敵の占領下撲滅によって、時刻がより強力になる手段であったからである。
 「昔の戦争」は、種族間の自然淘汰の戦いである傾向が多いために、どちらかが生き残り、さらに繁栄するという結果を招くために、殺人は悪という仮説の延長線上にはないのである。
 もっとも、最近の戦争は、この考えでは成立しない。
 現代は、あまりにも国際経済が発展し、敵国であってもお互いに経済依存している場合が多い。
 表面上は依存していないようでも、全世界的な景気という関係では依存しあっている。
 こうなると、現代の戦争も「殺人は悪という仮説」の延長線上にあるのかもしれないが、これ以上の考察は本論ではないのでここで止める。

新たな判断基準としての推論

 さて、判断のもう一つの方法に、推論がある。
 初期は、それまでの経験を基にして、経験が適合しない新しい局面での判断を行おうとする。
 誰も経験したことが無い災害が起こったが、経験から類推して対策する場合などである。
 コロナ感染症などのような、新規感染症がこれに当たる、あるいはこのような状態を「かすめている」ともいえる。

 経験論が「内挿」であることに対して、この種の推論は「外挿」と言えるだろう。

 さらに、推論が正しかったという経験は新しい推論を呼び、「外挿」の範囲はより広くなってゆく。
 もちろん失敗する「外挿としての推論」での判断もあるだろう。
 しかし、それは失敗経験として、次の推論の材料となる。

 この流れは、科学の手法に類似している。
 観測し、考察し、仮説を立て、検証し、さらに次へ進む。
 科学手法は、既に政治や商戦で行われてきた推論の手法を、自然現象の解明に応用したものともいえる。

 この「推論という新しい判断手法」は、人類の歴史から見ると太古から存在しているが、生物界や自然界のスケールでは、ほんの最近に始まったものである。
 つまり、我々は「内挿法である経験論」から「外挿法である推論」へと判断手法が移りつつある「端境期」に生きている・・・ともいえる。
 いや、これは言い過ぎだろう。
 人類は「外挿法としての推論」を判断方法の一つとして採用し始めているのである。

コロナでの考察

 昔から感染症への最大の対策は「隔離」である。
 感染者を早期に見つけ出して隔離し、拡散を防ぐ。
 流行する感染症は新しいものであり、未経験のものである。
 だから、当然有効な治療法は無く、感染が拡大する。
 治療できないから、感染者を早期に見つけ出して隔離するしかないのである。
 あるいは、人と接触せずに自宅にこもるしかないのである。

 今回のコロナは、この経験論を軽視し、医学・薬学の効果を過大評価している政治家、いや社会全体の慢心がパンデミックを引き起こした良い事例である。
 治療法が確立していない感染症であるにもかかわらず、ペストやスペイン風邪や赤痢やコレラという感染症で行ってきた「感染者の早期発見と隔離と自宅籠り」という効果的な経験論を「過去の方策」として軽視した愚行が招いたものである。
 最初に感染拡大した国が、感染症で手痛い目にあうことが少なかった国であるということもパンデミックの要因の一つになっている。
 これに輪をかけて、経済を重視する票田崇拝の政治家や、忖度役人たちの判断も、「我々には医学がある」という根拠のない慢心で感染症を軽視するという愚行が重なった。
 いや、一年以上経過した時点でも、愚行は繰り返されている
 今の政治・行政機構は、経験論すらも判断基準としない、政策重視での判断という根拠のない判断基準で動いている。
 それに気づかず、先を見通さず、対症療法的なものを、それも大幅に時機を逸して(遅れて)繰り返している。

 政策と言えば見栄えは良いかもしれないが、突き詰めれば、「特定の人間の思い込み」である。アフガニスタンのタリバンが良い例であろう。タリバンにとっての政策は「宗教ですべてが解決するという思い込み」である。
 個人の短絡的な理想以外に、特定の業界の利益誘導だけを目的とした「票田優先の政策」に埋没し、推論をせず、経験論すら無視して「政策で判断を繰り返す」政治と行政機構に、効果的な対策を期待することは無理である。

 政治と行政機構を構成する「政策が大事で、目の前のことで精いっぱいな近視眼的人物」の烏合の衆が、「経験論と推論で的確な判断ができる集団」にならなければ、種族としての継続も怪しくなる。
 コロナは一つの試金石であり、現在の政治・行政機構は同じ誤りを経済から教育やその他のあらゆる分野で繰り返してゆくだろう

では革命・・・は短絡

 それでは、現政権を倒して、理想の社会を作ろう・・・だって?
 ことはそれほど単純ではない。
 この安易な判断に堕ちた昔の日本赤軍の愚を繰り返してはならない。ミャンマーの軍事政権の愚行を繰り返してはならない。

 政治・行政機構は、民衆という基盤の上に成り立っている。
 つまり、経験論や推論が正常にできない政治・行政とは、その基盤である民衆自体が、経験論・推論で判断していない証明なのである。
 現政権を倒しても、同じ素材としての意識しか持たない人たちで作られる政治・行政機構は同じ道をたどる。

 繰り返すが、我々は端境期に居る。
 だから、辛抱強く、民衆に判断能力が向上するのを待つしかない。
 革命などは、かえって悲劇を生むだけの短絡的な方策でしかないのだ。

 社会は「基盤である大衆」の「意識水準を向上させる」ことでしか改善されないのである。

bye

ありがとー