大量なら塵芥でもネズミは太る 恣意
これは、まったくの主観であり、恣意であり、妬み嫉みの塊でもある。
また、完全な仮説であり、証明する気も無い。
人間の主たる目的は生存と子孫を残すことである。
と仮定する。
そのために働き、食べ物を手に入れ、子を育てる。
さて、余裕ができると楽しみが欲しくなる。
余裕とは、最低限必要なものから溢れた余分なものであり、最低限のものがコアであればそれを取り巻く余剰物である。
まさに、塵芥にも似ているどうでもよいものである。
繰り返すが、生きて子を育てることだけが大事とした場合である。
さて、塵芥でも量が多くなれば中にはうまいものや栄養が豊富なものがある。
人が見向きもせず無視する、余分なものでも、実は美味しくて滋養に満ちているものが増える。
人口が増え、生活が豊かになると、あらゆる方面のこのような余剰物が生まれてくる。
塵芥でも良いものが含まれる確率が増える。
都会に劇場や演芸場が多い理由
都会ほど人口は多い。
余剰物、文明の塵芥は増える。
なくとも生きてゆける余剰物である塵芥は、それだけでも生活を可能にする。
娯楽とは本来余剰物である。
娯楽無くしては人生の潤いが無いのは確かだが、飢餓に直面している時代には娯楽よりもまず飯である。
都会にはこの余剰物、つまり塵芥が多くなる。
生きるために働く人間から見ると塵芥のような余剰物でも、それを糧にして生活することはできる。
ましてや大量になると塵芥の中に、思いもよらぬ宝物が存在し始める。
さて、娯楽を提供する者たちは、この生活での余剰を糧にして生きていると言える。
芸人、俳優、音楽家、画家、その他アーティストと称する者たちは、生きるために仕事をし生活するものの余剰物によって生活している。
生活に余裕ができて劇場へ足を運べる。
余裕があるからこそ、演芸場での笑いを求める。
大都会になればさらに余剰物には上質なものが含まれ始める。
だから、大都会には劇場や演芸場、娯楽設備が多くなる。
だから、芸人、芸能人、アーティストは都会の恩恵の下で生活し、豪奢な生活をすら送ることができる。
なんと、余剰物でを糧としながらも巨大な人口を背景にした大量の余剰物は、それを糧にするものを、余剰物を生み出す者よりも豊かにするのである。
都会のネズミほど毛艶が良い。
塵芥でも、大量ならば栄養も味も良きものが含まれるからである。
誰がネズミなのか
では、誰がネズミなのか?
会社員であっても、業種によっては娯楽に類する業務の者がある。
乱暴に分類すると、娯楽業界もネズミである。
逆に、生活に真に必要な業務を行う会社員の方が大都会になるほど割合を少なくするのである。
とはいっても、目の前の役には立たないものが長期的には膨大根利益をもたらす事例には事欠かない。
バカにされていた基礎研究が、今の文明の基盤になっている例も数多くある。
だから、いま役に立っていないからと安直に判断することは危険である。
アーティストと称する者たちを主役にするフェスが、大量の雇用を呼び大勢の家族を養っていることも確かではある。
しかし、コロナ禍で一つ学んだことがある。
フェスが無くても生活はできる。
フェスで生計を立てていた失業者も、社会基盤がしっかりしていれば即座に飢餓に陥ることは無い。
アーティスト、芸能人の本質を見直す時期だろう
bye
ありがとー