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忘れてはならないもの

コロナ発症から今日で10日目。鈍った身体を慣らすために外を少し散歩していると、駅前でご老人達が「赤紙」を配っていた。僕は、恥ずかしながら今日が終戦記念日だということも露知らず、ふと昨日の夜にテレビで戦争特番がやっていたことを思い出して「あー、そういうことだったのか」と気付かされた。

この時期になると毎年、原爆や戦争の恐ろしさについて各メディアが大きく取り上げる。僕のような人間はこれを機に、なんとなく「核兵器はやはり怖い」とか「戦争はやはり怖い」とかいう、頭の奥にしまっていた感覚をかろうじて呼び起こすことが出来る。戦後を経験した人間ほどこの感覚は強烈なのだろう。30度を超える猛暑の中でも首にタオルを巻きながら、一生懸命に赤紙を配るご老人達の姿がそれを物語っていた。

しかし、こういう機会がいくらあっても人々は徐々に忘れていく。実際に戦争を体験した人が減り、それを語る人も減り、我々は段々と「単なる歴史」としてしか意識することが出来なくなってくる。例えば、関ヶ原の戦いという言葉を聞いて、真っ先に戦争の無惨さを頭に思い浮かべる人は殆どいないだろう。では、あのような老人達の努力は無駄なのかというと決してそうではないはずだ。人々のあらゆる「忘れない努力」が、我々の潜在意識に刷り込まれ、その意識と共に新たな歴史が作られていく。いつかは塗り替えられるかもしれないけれど、きっと必要なことなんだろうと感覚的に感じる。

昨日テレビで80代後半の老人たちが戦時中の出来事を振り返っていた。上官に命令されて敵の赤子を崖から放り投げたり、複数人で女の人達をレイプしたり、目の前で10代〜20代前半の若者が戦車に爆弾を持って突っ込んで死んだのを見たり、訓練と称して捕虜を槍で突き刺したり、想像もしたくない凄惨な経験をもう70年も経った今泣きながら語る老人達。きっとこれまで心に残った傷跡に何度も悩まされてきたことだろう。見ていて涙が溢れた。

いつかは忘れてしまう、それでいいと思う。ただ今は、戦争は2度と繰り返してはならないのだという意識をまだはっきり持てる。来年またこの記事を読んで、この感覚を取り戻したいと思う。

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