大学と論文について

みんな、書きたくもないテーマを、自分の書きたいやり方に反して、みんな同じ顔をするような文章を書かされている。内容だなんて言っている奴がいるが、それはクソだ。論文だって、芸術、作品だ。見やすいように作ったものがあったっていいじゃないか。短い論文があったっていいじゃないか。それを、教員の都合だかなんだか知らないけど、自分と同じ型にはめ込もうとしやがって。人それぞれの解釈があったっていいのに、なぜ形式の分際を超えて、考え方にまで土足で踏み込もうとするのか。やるにしても中途半端だから、教員本人も全然論理的じゃないから、何にも身につかない。小手先の技術に終わる。

 形だけならまだいい。もし本当に論理的な文章と言って、文言や並べ方にだけこだわるのであれば、理由説明は”Because”,とか、そういうのは1つにすればいい。その方が、見る側はこの主張の理由はココにあるんだって、一発で見て分かるだろう、それか理由のところに①②…とか振っとけばいい。そうすればずっと見やすい文章ができあがるだろう。
 なのにそれをしようとしないのは何故だ。書いてる本人も、読んでる本人も、見やすいならそれでいいだろ。後で自分で書き込みをいれるくらいならはじめからそうさせてはくれないのか。なぜそれを拒むのか。理由なんてない。ただ今まで誰もそのように文章をぶった切った奴がいないからだ。論理論理言う奴は、分析もせずに一体何びびって、既存の、分析に合わない文章の書き方に満足してるんだ。


 しかし、俺は上の意見とは別の考え方もあると思う。ずばり、論理なんてくそ食らえだ、って考え。これは、書いてる側のありのままの生の流れを重視するって考え。論理なんてのは、所詮読む側の都合で、書いてる本人は、言いたいことってのは文字になって無くてもそれなりの存在感をもってそこに存在しているもんだ。それを、読み手側の思考を意識していたんじゃ話にならない。そんなおびえた根性で、がちの話し合いなんてできるか。自分が説得するか、相手が説得するか、その終着点まで徹底的に話し合う、それが本当の会話ってもんだろう。ガチでやれないなら、はじめからやらない方がいい。そんな生半可な気持ちでやるくらいなら、ぶつからない方がいいんだ。
 →いいじゃないか。別に結果が出なくたって、終わるまでやり合うなんてふざけてる。そんな世の中単純じゃない。

 俺はその意識が必要だって言ってる。確かに結果が出ないときもある。でもそんなケースは、はじめから結果に期待しないでやる議論から、生まれうるのか?やり合うときはやはり本気で、徹底的に最後までやりきることだね。もし相手が日和って、議論から逃げ出して、影で裏口たたかれようが知ったことではない。本気で死にに行くつもりがないなら、辞めちまえばいいんだ。本気で自分の考えに自信の持てない奴なら、そういうことなんだ。議論は言葉の戦争だ。勝つか負けるか、そのどちらかって考えろ。ただ、結果は、現実は、毎回白黒ハッキリつくほど単純じゃない、そういうことだ。

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